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江戸のお産1
武家・商家・農家とも、初産は実家に里帰り、二度目からは婚家でのお産が一般的でした。
江戸時代にも産科医はいましたが、子供を取り上げるのは「産婆」の仕事でした。
この「産婆」という呼び名は、1765年に賀川玄悦が出した「産論・第2巻」で初めて使われたと言われています。
それまでは、上流階級では「腰抱き」、庶民には「取上げ婆」と呼ばれていました。
賀川玄悦(1700年ー1777年)は、日本の産科医の基礎を作った人です。
今ではみんなが知っている、胎児は頭を下にしているという「正常体位」を発見した人です。また、それまでは胎児が娩出できず、手の施しようがなかった産婦を助ける「回生術」を我が国に導入した人でもあります。
回生術は、鉤を使った、高度な技術を必要とする危険な施術の為、門下であっても安易に広められる事はありませんでした。
産論には、産婆は元々、夫を亡くした老女が生きていくために生業とするもので、沐浴や清拭をするのみの存在で産婦の生死、手術の成否について相談するものではないとあります。(酷い言われよう)
かと言って、玄悦から、産婆に対しての働きかけは無く、医学においても産婆に対しての教育は置き去りとなります。
その為産婆は、段々と経験や知識を蓄えていくものの、難しいお産では対処できず、悲しい事ですが、命を失ってしまう母子も少なくありませんでした。
それから65年後、初めて医者の立場から産婆に対してアプローチする指南書が出てきました。記したのは、町医者で小児科医の平野元良(1790年ー1867年)その人です。
1830年(文政13年)に出された坐婆必研(とりあげばばひっけん)で、産婆の位置づけやお産の具体例などを上げつつ、産婆の論理・技術を懇切丁寧に説いています。
賀川玄悦の秘伝とされていた回生術ですが、どこからか漏れるもので、産婆が見様見真似で施すこともありました。亡くさなくて良い命を亡くしてしまう結果を悲しんで、安易に施さないよう、強く警鐘を鳴らしています。
平野元良は将軍家主治医である多紀元簡に学びましたが、官位には見向きもせず、生涯庶民の為に尽くした人です。
1832年に出された「病家須知」は江戸版家庭の医学です。
養生、食事、妊産婦の体調管理、出産、育児、怪我の処置法、終末期ケア、伝染病について、具体例をあげて記しています。
「医者三分、看病七分」(家族に負担を強いるという意味ではなく)医者に出来る事は少なく、日頃の心がけや家族の愛情が何より、という考えの元良は、庶民の健康を心から願った人でした。
【産婆さんの選び方】
産婆さんは、経験と知識が豊富なベテランさんで、尚且つ、性格穏やかで強情を張らず、物事に動じない豪胆な人が良いとされていました。
反対に難ありなのは、年寄過ぎる産婆さんです。体力が落ちて、長いお産に付き合えずに眠ってしまったり、何かと言えば気が重くなる暗い話をすることから、産婦どころか、家族中を嫌な気持ちにさせてしまい、安産であったものを難産にしてしまう事もあったというから産婆さん選びは重要です。
産婆さんは、命がけで子を産む母の介助をするだけに、豪胆な人が多かったようです。また、お酒も豪快に飲む人が多かったようで、お産の時はお酒を出さないようにとの注意もされていたようです。
「誰が吞ませたんだ~~~!!」と叫ぶお父さん。おろおろするお母さん。
「産婆さん寝てるの~?どうすればいいの~??」と困惑する実家での初産に臨んでいた娘さん。
へべれけになった産婆さんを寝かせて、他の産婆を呼びに行く、なんてこともあったのかもと想像してしまいます。
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