江戸の幽霊

1/1
前へ
/132ページ
次へ

江戸の幽霊

 「夏」でも少しご紹介しましたが、江戸時代には怪談が大流行しました。 若い人が寄り集まっては、百物語をしたり、夏芝居と言われた歌舞伎の演目にも『東海道四谷怪談』など怪談ものが上演されたりと、怪談は江戸の人々にとって娯楽であり、涼を与える存在でした。  過去に遡れば人々が恐れたのは、人が手出しの出来ない存在「自然」そのものでした。地震や河川の氾濫などの手に負えない事柄、厄災は全て、人ならざるモノ「鬼」や「天狗」による禍いと考えていました。  時代が下ると、ヘビ、キツネ、タヌキ、ムジナ、ムカデなど、動物が知恵を持ち妖怪となり、人に仇なすと考えられるようになります。  更に道具の発達により、百年使われた道具は神になる付喪神、またそれになり切れなかった九十九神(こちらは妖怪)という存在も生まれてきました。  人としての霊では、「北野天神縁起絵巻」に描かれた藤原道真のような、国家規模で鎮魂するレベルの怨霊から、次第に、無念の死を遂げた武士の霊が彷徨い出るようになり、「死霊解脱物語聞書」に書かれた、夫や、養父に怨みを持つ霊が、怨念をはらす為に生きている人に憑りつくようになり、更に、生前無体をされた姿そのままで現れるようになります。  怨霊ではありますが、徒なす規模は段々と、国家から個人間へとレベルダウンをしています。  江戸時代になって、生前無体された姿で現れるようになったのは、長く続いた泰平の世であったという事、鎖国に寄る日本独自の文化の隆盛、商業の発達、厳しい身分制度、キリシタン禁止による寺請け制度で仏教との密着等が大きくかかわっていると思われます。    家、町、社会を存続させるため、強者が安穏と暮らす為には、誰かが負担を強いられる構造が生み出されました。その役目は、女性や子供達、立場の弱い者となります。虐げられている人を見ている人々は、当然それを十分に知っていますが、自分の事で精一杯、下手な事をすると自分にお鉢が廻って来るのではと、見て見ぬふりでやり過ごします。しかし良心の呵責は少なからずあったはずです。  そこに仏教の教えである「因果応報観」があいまって、弱者は死して怨みをはらす為に現れる事が出来、結果、強者にバチが当たると言う怪談が生まれていったのだと思われます。  この、個人間の恨みつらみの怪談は、強者への、『ええ加減にしとけよ!』という強烈なメッセージでもあったのではないでしょうか。        
/132ページ

最初のコメントを投稿しよう!

55人が本棚に入れています
本棚に追加