江戸の化粧(化粧の歴史)

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江戸の化粧(化粧の歴史)

化粧と同じ漢字で表しますが、江戸の人は「けしょう」を首から上を装うもの、「けわい」は立ち居振る舞いも含めた、全身に施される身だしなみの事として、区別していたようです。 今回は「けしょう」の方を取り上げます。 【歴史】 古墳から出土する埴輪にも見られるように、顔に、血の色であり、生命の色である()や朱、ベンガラ等を塗っていたようです。この時代の化粧は、呪術的な要素が強かったと考えられています。 飛鳥時代(692年)に中国から水銀で作られた白粉(和名:波良也(はらや))が渡来しました。 その十年後には、鉛と酢で作られた日本産の白粉が登場します。 粉ではなく、瓦板状の平たい固形で、水を差して”ねりねり”と粘液状にするタイプでした。唐の人も土産に持ち帰る程の出来の良さだったようです。 平安時代、公家はご存じの通り、男女ともベースは引眉(ひきまゆ)(眉を抜き去る事)に白塗りです。額に眉を描き、唇が小さく見えるように口紅をさします。口中のお歯黒は成人の証でした。また、貴族は大体が顔色が良くありませんので、白塗りした目元から頬にかけて紅で血色良く見せるように仕上げていました。 (平安時代の成人は男女差はありましたが12才から15才くらいです) 麿眉を不思議に思っていましたが、眉の動きで自分の喜怒哀楽を悟られないようにする為に額に眉を描くようになったと言われています。 円滑な人間関係の為なら眉毛を抜く痛さなんてへでも無い!と言った所でしょうか。ちょっとした事で妬まれたり、果ては呪われたり、人間関係、複雑そうですもんね。 戦国時代は、戦地に赴く武士が死化粧を施して出陣していました。本当の意味で首を取ったり取られたりの時代、負ける気はないけれど、もしもの場合見苦しくないようにとの思いだったのではないかと思います。 そして、いよいよ。江戸時代。 お化粧は、主に女性がするものとなりました。 白、赤、黒の三色のみで仕上げます。 娘時代は島田、結婚したあとは丸髷にする髪型と同じで、結婚、出産等により化粧の仕方が変わっていきました。 江戸の女性たちも、現代と同じように、自分をより良く見せたいと、研究し、楽しんでいたようです。 「女用訓蒙図彙(じょようくんもうずい)」(刊年不明) 「女大学宝箱」(享保元年1716年) 「浮世風呂」(文化6年から文化10年) 「都風俗化粧伝(みやこのふうぞくけしょうでん)」(文化10年1813年) 「容顔美麗考(ようがんびれいこう)」(文政2年1819年) 等、様々なファッションブックが刊行されています。 初版から何十年も同じものが繰り返し出版されることがありました。 流行の変化に伴い、今でいうグラビアに当たる挿絵などが書き換えられました。
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