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【茶室】
千利休の作った茶室は二畳、三畳と大変狭い空間でした。
京都の妙喜庵には、千利休が作ったと言われている、国宝にして日本最古の茶室「待庵」が現存しています。
にじり口を設えたニ畳という極小の空間は、数寄屋造りの原型と言われています。
にじり口は高さ66センチ、幅63センチほどの大きさしかなく、身をかがめ入る形になります。茶の前では皆平等という考えで作られた入口ですので、武士も刀を外し丸腰になって入ります。
【にじり口の入り方】
①戸が少し開いているのが、入室許可の合図です。
②左手で真ん中まで開け、右手で最後まで開けます。
③扇子を先に茶室に置きます。
④両手をグッド👍の形にして、親指だけで畳を押し体をずりっずりっと、にじらせて茶室に入ります。
⑤置いておいた扇子を手に取り、今度はそれを今入って来た入り口に向かって置き直し、自身も入り口側に体を回転させます。
⑥脱いだ履き物を手に取り、重ねて壁に立てかけます。
⑦体の向きを再度部屋の内側に回転させ入室完了です。
待庵は、天下分け目の天王山!といわれる豊臣秀吉と明智光秀との戦い、『山崎の合戦』(1582年)の折、秀吉に請われた千利休が陣営に建てたもので、その後1600年頃に妙喜庵にしたと考えられています。
【ちょっと秀吉】
戦の最中に、小さいとはいえ茶室を丸ごと建てるなんて!と驚きましたが、なんと、本陣のあった宝積寺に今も残る三重塔は、この合戦で亡くなった人達を弔う為に、一夜で造らせたとか。(´⊙ω⊙`)
秀吉、悼む心が篤すぎて、生きてる人間に無茶を言う……
【遺偈】
信長が本能寺の変で倒れた後も、秀吉に同様に厚遇された利休は、諸大名にも多大な影響力を持っていました。しかし二人に何があったものか、秀吉より切腹を命じられます。弟子達は助命嘆願に奔走しましたが叶いませんでした。
天正19年2月28日(1591年4月21日)家屋敷を取り囲む兵に向けて茶を立て、最後の茶会を催した後自害しました。
遺偈(弟子達に残した遺言)です。
人生七十 力囲希咄 ※1(じんせいしちじゅう りきいきとつ)
吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにそす(ころす))
堤る我得具足の一太刀 (ひっさぐる わがえぐそくのひとたち)
今此時ぞ天に抛※2(いまこのときぞ てんになげうつ)
七十年の人生だったああああ!
私のこの宝剣で、先祖も仏も私もろともその命を奪おう
我が身に得意の一太刀を振り下ろし
今この時!(私の命を)天に投げつけてやる!
茶の湯のこれからについて、はたまた心構えなどを遺したのかしら?と思っていたら、ヽ(´o`;かなりご立腹のご様子……
遺偈と言う事は、弟子達だけにでも、急にこの世を去らねばならぬ悔しさを知って欲しかったのでしょうか。
この24年後には、戦国時代も終わりを告げ、時代は江戸へと移っていきます。
※1 力囲希咄は、エイ!などの掛け声の事らしいので、叫びたかったのかなと思い上の様に訳しました。
※2 抛は、差し出すという意味もありますが、敢えて投げつけるの方をとりました。
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