お茶の歴史(江戸時代)千家

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お茶の歴史(江戸時代)千家

今回名前が羅列されるため、名前にフリガナをふる形式ではなく、カッコ内にフリガナを明記しました。 【一家離散】 利休の死後、実子道安は亡くなり、養子であった小庵(しょうあん)は、会津若松の蒲生氏郷(がもう うじさと)の元に蟄居を命じられます。その子、宗旦(そうたん)は大徳寺にて仏道に帰依していましたので、千家は実質的に一家離散状態となりました。 【再興】 三年の月日で秀吉も怒りが溶けたのか、文禄三年(1578年)、小庵に対し京に戻る許しを与えます。 京に戻って来た父と還俗した宗旦の二人での茶の湯再興が始まります。 しかし、慶長20年(1615年)に起った大阪夏の陣で、父小庵が亡くなってしまいます。 【プレッシャー】 一人残された宗旦。千家を一人で背負って立たねばならないというプレッシャーは大きかったようでついに心を病んでしまい、その後20年近く宗旦の名は表舞台から消えてしまいます。 【不審庵】 その名が再度浮上したのは、寛永10年(1633年)。 父小庵の20回忌を迎える年に、祖父である利休の理想としていた1畳半の茶室「不審庵」を造作しました。その名は禅語の「不審花開今日春(ふしんにしてはなひらくこんにちのはる)(何故春が来て花開くのか不思議である)」から取られ、人知を超えた自然の不思議さ、偉大さの意となります。 【侘び茶の接待】 それを聞きつけ訪れたのが、第108代天皇である後水尾(ごみずのお)天皇の弟、近衛信弘(このえのぶひろ)公です。 宗旦が病に倒れていた間に隆盛を誇っていた※大名茶とも呼ばれる武家茶になじんでいた公、又、最高位の公家たる公に対しても、宗旦はなんら臆する事無く『侘び茶』でもてなしました。 ー茶の前ではみな平等、奇をてらわず、ありのままー それを受けた公も流石に一流の文化人らしく、直ぐに侘び茶とは何たるかを理解され、深く感銘を受けられたと言われています。 ※『武家茶』は戦国大名でもある古田織部が、利休の「人と違うことをせよ」という教えを元にして考案したもので、今ある物をわざと壊し、それを継いで新しい形に作り替える「破調の美」が有名です。 利休があるがままの物に美を求めたのに対し、織部は積極的に美を生み出した茶人だと評価されています。 大きな部屋での豪華で高価な茶道具で行われる物でした。
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