お茶の歴史(江戸時代)千家

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【宗旦の息子達】 宗旦は、先妻の子長男 宗拙(そうせつ)、次男 宗守(そうしゅ)、後妻の子三男 宗左(そうさ)、四男 宗室(そうしつ)の四人の息子をもうけますが、長男である宗拙は茶人ではありましたが、宗旦と折り合いが悪く勘当されています。 【ちょっと寄り道 宗拙】 宗旦が後妻を迎えた時に宗拙は10歳、宗守は8歳。多感な年頃への入口に立つと同時にまだ母が恋しい年頃でもあり、新しい母に内心戸惑があったと思います。 加えて弟の宗守が、早くから蒔絵師の元へ修行に出された為、離れ離れとなってしまい、益々孤独が募って行ったのではないかと推測します。 一度は茶人となり前田家に士官しますが、早々と辞してしまいます。これを父に責められ千家を離脱、江戸で浪人のような暮らしを続け父より先に亡くなってしまいました。 宗旦はその知らせを聞いた時、絞り出すような声で泣き崩れたと言います。誰よりも宗拙の思いを分かっていたのかも知れません。 【家督を譲り受けた三男宗左:『表千家』】 三男宗佐は周りの後押しもあり紀州徳川に茶道家として仕官が叶います。これで千家安泰と胸をなでおろした宗旦は宗佐に家督を譲り隠居します。その際に家屋敷も全て譲り、その裏手に隠居用の屋敷を建て移り住みました。 【京都武者小路に官休庵を建てた次男宗守:『武者小路千家』】 蒔絵屋の娘婿として※吉岡家の養子となっていた次男宗守は、三男の宗左の仕官を受けて自分も茶人として生きたいと籍を千家に戻します。兄弟の後押しを受け、老齢の為僅か1年ではありましたが茶堂として高松松平家に仕官することが出来ました。跡は養子である5代に任せ、京都武者小路に官休庵を結びました。 【表千家の裏に居を構えた四男宗室:『裏千家』】 医者を志していた四男宗室ですが、師の急死を受け道半ば千家に戻り父と一緒に裏屋敷に住むようになります。千家に戻って以降は茶人となり、加賀藩前田家に仕官します。宗室の仕官をみた宗旦は裏屋敷を譲り、更にその北側に隠居所を建て移り住みました。 【宗旦】 宗旦自身はというと、利休の孫という事で徳川家の茶の師範としても招かれましたが、権勢を嫌ってか、一生仕官する事はありませんでした。利休が切腹させられたのは、多感な14歳。権力を持つという事に思うところがあったのかもしれません。 【権力は要らない】 父の死後長く心を病んでいた時代、困窮した生活を助けてくれたのは父の弟子を名乗ってくれる町衆でした。 宗旦は江戸の町民に対して地道に茶の湯の普及に務めます。その生活は侘びの精神そのもののように質素で、あまりに自身に頓着しない姿に乞食宗旦と言われる程であったと言われています。 ※宗守は離籍する際に、娘の婿として中村宗哲に吉岡家を継がせています。 吉岡家は後に、千家十職(せんけじっしょく)と呼ばれる千家の茶道具を専門に作る集団の一つとなっています。
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