お茶の歴史(江戸時代)千家

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江戸中期、俳諧に『寂び』と言われる、閑寂の中に美を見出す技巧が生まれました。それがいつしか茶の湯の『侘び』と対となり『侘び寂び』と言われるようになって行きました。 一方、武家茶に見られる、わざと技巧を凝らしたものを尊ぶ一派も現れ、茶の湯はまたしても道を逸れてしまいそうになっていきます。 それを正すきっかけになったのが、教養を身に着けるブームです。泰平の世となり人々の気持ちにも余裕が生まれたようです。 これまではその道の専門家に教えて貰うというスタイルでしたが、教えて貰いたい人が増えるにしがたい、次第に「師匠と弟子」という関係性が構築されて行きました。 茶の湯もこの流れで多くの弟子を抱える事となり、やがて三千家(表千家・裏千家・綾小路千家)を筆頭とする、家元制度が確立されていきました。 家元側は、真摯に弟子達に伝え続け、間違った道に進んでしまった『茶の湯』を元の形に戻すことに成功します。そしてそれは、やがて茶の道、『茶道』として継承され全国に広まっていきました。 「和敬清寂」という標語もこの頃作られたものでした。 和:主従心を合わせて良い物にする 敬:主従が適切な距離を持ってその場を作り上げる 清:物心両方を清く保つ 寂:物心両方を飾り立てない 家元制度が確立されると、より多くの弟子を教える為に、八畳以上の茶室で一度に五人人以上で行うのが原則になっていきます。
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