10 潔

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10 潔

 判断を他人に委ねたためか、ぼくの心のジリジリ感が薄れる。当然、束の間のことだろうが、それでも、ぼくには価値が大きい。現金なもので仕事におけるミスさえ減る。笑顔まで浮かべられるようになる。会社での、ぼくの噂も途絶えたようだ。刑に執行猶予が与えられた感じか。  それに加え、ぼくが現状に少し慣れたのかもしれない。ぼくは子供の頃から、いつまでも、くよくよ悩まないタイプだ。良くない事態が生じれば最初の数日間は夢にまで魘される。が、それを過ぎれば普通に眠れるようになるのだ。一時的に酷い精神状態に逆行することはあるが、それにも慣れる。精神的に弱い人間の特権なのかもしれない。ストレスに慣れるのが早いのだ。そして慣れれば、ストレスと共存することもできる。困った事態を愉しむ余裕も生まれてくる。  ……といっても、それも一時的なものだが……。  慣れの心の状態の間にストレスの元が解消されれば、すべては終わる。が、ストレスが長引けば、いずれ精神が破壊される。あと七日間、ぼくは平穏に暮らせるだろう。けれども、それが過ぎれば……。  考えるだけで悍ましい。悍ましいうえに怖ろしい。ぼくは毀れてしまうのだろうか。自分自身を守るために……。精神が毀れれば心にストレスを感じない。だから耐えられないストレスを受けたとき、人は狂う。自分自身(の存在)を守るために……。  そんなこと考えながら一日が過ぎる。落ち着いた一日だ。妻とも疑惑なく会話をする。ああ、これで最後かもしれない、と心の何処かで感じながら……。  創のことは益々愛おしい。この感情は、どんな結果が出ても変わらないようにぼくには思える。けれども、人の心はわからない。ぼくが創を憎むようになるかもしれない。そんな事態が生じるとは今の心境では想像できない。けれども心は移ろうのだ。何が起きても不思議はない。  平穏な七日は、あっという間に過ぎ去り、遂に運命の日がやってくる。依田探偵から連絡を受け、ぼくは会社帰りに『Y探偵社』に向かう。再び、あの部屋の中に入り、ぼくの心臓が早鐘を打ち続ける。 「まあ、座ってください」  依田探偵が言い、ぼくの椅子を引く。 「結論から申しますと現在奥様は浮気をされておりません」 「本当ですか」 「調査結果では、そうなります」 「現在、ということは過去には……」 「木村さんとご結婚された後にも誰とも浮気はないはずです。時間が一週間しかありませんでしたから、絶対、とは申せませんが……」 「そうですか」 「ええ。ただし、ずっと以前、奥さまと彼は知り合いでした」 「彼、と言いますと」 「北原和則(きたはら・かずのり)、木村さんが奥さまの浮気を疑われた男のことです」 「北原和則……」 「その北原と奥さまとは同じ中学校の同窓生だったんです」 「妻と北原とがですか」 「そうです」 「中学校の……」 「子供の頃の知り合いと大人になってから再開し、付き合い始める、といったケースは稀ではありません」 「では妻は、わたしと結婚する前に、あの男、いや、北原和則と付き合っていたと仰るのですか」 「疑いはありますが、一週間では、そこまで調べがつきませんでした」 「ですが、わたしとの結婚後には付き合いがない、と……」 「それは間違いありません」 「ならば仮に結婚前に付き合っていたとしても妻にとやかくは言えない」 「法的には、そうなりますね」 「結局、他人の空似だった、ということですか」  ぼくが何気なく呟くと、 「お子さまのことですね」  依田探偵が言葉を受ける。 「まさか、息子のことまで調べたんですか」 「子供の顔が親と似ていない、という理由で浮気が発覚するケースは多いのです。だから必要な調査でした」 「そうでしたか」 「しかし結果的に、他人の空似、だったようですね」  依田探偵は、そこで一息吐き、ぼくに訊く。 「どうですか、奥様の過去もはっきりさせますか。あと一週間もあれば調査できます。それとも、もうお止めになられますか」 「すぐには、お返事ができません」 「商売的には調査の継続をお勧めしますが、個人的には、お止めになった方が良いと思いますよ。木村さんにとって今が幸せであるならば奥様の過去は関係ないはずです」 「確かに……」 「誰しも人には言いたくない過去があるものです。それを聞かないのが大人だと、私は思いますがね」  依田探偵が、ぼくにそんな言葉を放った裏には、ある仮説が隠されていたが、そのときのぼくに、それがわかるはずがない。
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