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「ゲロゲロゲロゲロミゲェロー!」 「何おぅ!」  新鮮な魚を並べる体付きのよい中年の男、魚屋の主人ミゲロが店先に現れた夢の呼びかけに苛立ちながら反応しました。夢に気付いたミゲロはまた視線を手元に戻し、しかめっ面で魚を並べ始めました。夢は楽しそうにミゲロにまた話し掛けます。 「フフ、素敵な名前」 「ガキ達にはしっかり教育しねぇと」  どうやらこの呼び名は子供達が勝手に付けた名前のようです。「もうそう呼ぶんじゃねぇぞ」と夢にもしっかり注意したのですがニコニコしていて届いていません。  夢が訪れた魚屋があるのは丘の真ん中を横ぎる広い通りで、そこはオレンジ通りと呼ばれていて、道には白い石畳が敷かれています。名前の由来はオレンジの木が植えられているからそう呼ばれています。町を横断するこの通りは学校の通学路になっていて、自動車はほとんど通りません。丘を正面にして左にしばらく下ると住宅街があり、その先には市場や港や駅があります。右に上ると様様な店が並び、その先に保育園、小学校、中学校、高校とあり、さらに先に行くと広場につながります。毎日通る子供達には染みがあり、また、長期間勉強するために通ううんざりする通りでもあるのです。クイナの町はこの丘を中心に広がっています。オレンジ通りや大きな道路は賑やかで華やかですが、そこから広がる町は区域ごとに特徴があり、とても穏やかです。 「悪りぃけど仕事の前にまた見てくんねぇか? 無理ならオッカに言ってくれ。諦める」 「うん、分かったわ。でも、難しいと思うわ」 「そうか」  ミゲロは魚の入った大きなプラスチックのケースに突っ込まれたホースを引き抜いて手を洗い、腰に着けたタオルで拭きながら夢に笑顔で言いました。 「もしそうなったらオッカと一緒に買いに行ってくれねぇか?」 「分かったわ! でもチャレンジしてみるわ!」 「おう、頼む!」  満面の笑みとグッと握った拳をミゲロに見せて、夢は靴を脱いで店の奥の部屋に入って行きました。  ミゲロは丸い椅子にドカッと腰を掛け、今日の魚の値札作りを始めました。商品を並べ終え、値段を決めてゆくこの時間はミゲロにとって楽しみな時間です。「あのおばさんはきっと」「あいつはこれで」その日訪れる客とのやりとりを想像しながら値札を作ってゆくのです。ミゲロはこの仕事が大好きです。それはこの町の住民達が大好きだからです。だから仕事が大好きなのです。  夢が入っていった奥の部屋は売り場とつながっていて、膝上ぐらいの高さがあります。部屋では今、夢がノートパソコンのキーボードを打っています。隣にはミゲロの嫁のオッカがいて、夢のために淹れてきたお茶をテーブルに置かず片手に握ったまま画面に釘付けになっていました。このパソコンはミゲロ夫婦が仕事や私用として使っていたのですが、最近動作がとても遅くなってしまいとても不便でした。エラーが起きている原因を調べながら夢は色々試していたのです。 「ごめんなさい、きっと丁寧に使ってきたから現れた症状だと思うの。メーカーに送れば多分、」「どうしてあんたが謝るのさ?」オッカはニコニコ笑いながらそう言うと、持ってきたお茶を夢の手元に置きました。 「物なんだから、いつかこうなるのさ。ここまで使ってもらえればこの子も満足さ」  オッカは冗談混じりにそう言うと、パソコンを閉じて優しく撫でました。オッカは少し考え、壁に掛かった時計に目を向けました。 「今日の仕事は店だけだよね? もうそっちは良いからさ、ちょっと買い物に付き合ってくれないかい?」  オッカがそう話した瞬間店にいたミゲロが部屋に入ってきて、そのままズンズンと二人の前を横切りタンスの中から封筒を取り出しました。「ほら。用意しといた」そう声を掛けたミゲロはオッカの前に封筒を置き、また部屋を出て行きました。 「なんだいあの人は」  オッカは封筒を手に取り中を覗き込みました。夢はオッカに視線を移し尋ねました。 「新しいの買いに?」「みたいだね。時間はあるかい?」「もちろんよ! ミゲロさんが大丈夫だったら行きましょう!」仕事に少し必要で、プライベートにも少し必要で、だから何となく必要なパソコンを二人は買いに行く事にしました。  オッカがミゲロに帰宅時間を伝えると、「上手いこと買えよ」と注文が入りました。オッカは夢に向かってムッとした顔を見せると「行こうか」と声を掛けました。二人はミゲロに聞こえないようにクスクスと笑いながら店を後にしました。  二人の後ろ姿をチラリと見たミゲロはまた手元に視線を戻し、「誰の小遣いだと思ってんだまったく」と小さく呟くと、また目玉商品の切身の盛り合せを作り始めました。ミゲロの魚屋の盛り合せは分厚く綺麗で毎日必ず売り切れます。値段も高くありません。それ以外の生き甲斐をお客さんからもらっているからです。毎日沢山の盛りを作るので、お客さんが多くなる夕方まで休憩を挟みながら準備を続けます。  その作業が一段落するとミゲロはホースの水で手を荒い、右耳の補聴器を取り外しました。外すとピーッという音が鳴るので電源を切って音を止め、テーブルの上のティッシュを一枚引き取りました。補聴器に付いた汗を丁寧に拭き取ると、使ったティッシュをゴミ箱に投げ入れ、テーブルにある綿棒をカップから一本取り出しました。ミゲロは気持ち良さそうに耳をクル、クル、と掃除しました。使った綿棒をまたゴミ箱に投げ入れると、「ふぅ」と清清しいため息をつきました。手でパタパタと扇いで耳に風を送るとミゲロは涼しそうな表情をしました。ふと店の外に目をやると、爽快な春の光が通りに射し込んでいました。少し陰った店内と光のコントラスト、これから訪れる夏の季節を感じさせます。心が軽くなったミゲロは補聴器をしっかりと装着し、盛り作りを再開しました。  きらきら、きらきら。店先にぶら下がっている札には『昼盛り』と太い文字で書かれていて、風になびくと黒のインクがきらきらと光ります。準備は出来てるよ、と光ります。  夢とオッカは丘の西側にある港近くの家電量販店に居ました。二人は一階の男性店員とパソコンを選んでいるようです。 「それもいらない。持ってるもの以上のものは要らないから安いのはどれだい?」  売りたいパソコンを勧める店員と安く買いたいオッカの攻防はこの最初の一言で終わったようです。キリッとしていた店員のおしゃれな四角いメガネは、夢とオッカを見つけ走って来た時よりも、どことなく元気がなくなってしまいました。 「今お持ちになっている製品はどういったものですか?」  気持ちを切り替えた店員が尋ねました。夢がオッカの代わりに今までの経緯と希望する使い方を伝えました。夢が分かる限りの症状を詳細に伝えると、店員は腕を組んで考え、話し出しました。 「もし当店に持参出来るのでしたら調べる事が出来ますがどうしますか?」  オッカは夢に目をやり「どうしようか」と相談しました。夢はもう少し考えをまとめる材料が欲しいので気になる点を質問しました。 「簡単な作業で治りますか?」 「おそらくバッテリー交換とディスクの整理で少し改善されます。ただ本体自体の製造日が古いので、ウイルスの心配やサポートの停止も近いですし少し大変になると思います」  店員の話を聞いた夢は申し訳ない気持ちになってしまいました。その様子に気付いたオッカは夢の背中にポンポンと触れました。夢が振り向くとオッカは笑顔を見せました。 「新しいの買っちゃいましょ! どうせ、ね?」  夢は片手で口元を押さえ、小声で「いいの?」と尋ねました。オッカは両手を広げニコリと笑いながら頷くと、遠慮する様子もなく言いました。 「だって、私には痛くも痒くもないもの!」  そんな様子を見ていた店員が二人の会話に入りました。 「交換費用とか色色考えると損な買い物ではないと思いますよ」  そう聞くとオッカは夢に笑顔を向けました。 「そのつもりだったしね。あの人の小遣いなんて楽しむ程度の酒が買えりゃ良いのよ!」  オッカの言う事もよく分かるので夢は思わず笑ってしまいました。 「これで困る事はなくなるね」  オッカは晴れ晴れとした笑顔でそう言うと、夢は人差し指をピッと立てて目を細め「ここからが大変なのよ!」といじわるっぽく笑いました。 「どうしてそんなに楽しそうなのさ?」  オッカが楽しそうにそう言うと夢は照れくさそうに唇をギュッと閉じました。 「遊びに行ける口実ができるもの」  それを聞いたオッカは嬉しそうな顔になり「バカだねぇ」と言いました。 「いつでもおいで」  購入の手続きもスムーズに終わったので、次は夢の買い物をする事にしました。目的の商品がある売り場を店員に確認し、向かっている途中で見つけたロッカールームで荷物を一時預け、二人はエスカレーターで三階まで上がって行きました。 「運動でも始めるの?」オッカはエスカレーターの手すりにもたれながら、一段上にいる夢に訪ねました。少し視線を落とした夢は首を横に振りました。  エスカレーターが三階に着くと、夢は周りを見渡し「あったわ」とオッカに声を掛けました。 「私じゃないの。おば様に良いものないかなと思って」  夢の声は少し元気がありません。 「ミロクばあさん?」  夢は頷くと、商品が並んだ棚の前で立ち止まりました。陳列されている膝のサポーターを手に取ると、どういうものなのか確認し始めました。 「おば様、右足の調子が悪そうで。足に疲れが溜まってつらいのかもしれないと思って。後シナモンも探してるわ」  腕を組んで眺めていたオッカは右手を顎に持っていき、何度も小さく頷きました。 「確かに姉さん、夫さんと母親、続けて、ね。そうだよ、ショックが大きくて体に出たのかもしれないね」  その言葉を聞いた夢は、心の中に様様な景色が浮かんできて、悲しい顔になりました。 夢は持っていたサポーターを元の位置に戻し、別のものを手に取りました。 「なら私にも協力させてもらうよ。半分ずつだ! どんなものを探してんだい?」  夢は思わず手を振り、慌ててオッカに言いました。 「大丈夫よオッカさん! 私が勝手にやってる事なの」  夢らしい反応に笑みを浮かべたオッカは静かに話し出しました。 「いいんだから。ばあさんの誕生日も近いしちょうど良いんだよ。それにね」  オッカは夢に笑みを向け、強く優しい声で話し掛けました。 「夢にとって大切な人。でもさ、私にとっても大切な人なんだよ。出来る事は何だってやりたいんだよ」  そんな温かなオッカの言葉に夢の心は嬉しい気持ちで満ちてゆきました。  オッカは夢の持っていた商品を手に取り、凝視し始めました。 「これは重いね。あのばあさん、これは嫌がるね!」  そんなオッカの明るい声に夢の不安は少し和らぎました。  二人は沢山の商品を見て回り、おしゃれなミロクおばあさんに喜んでもらおうとデザイン性も考慮して一つ選び出しました。会計時に、料金の端数は私が払うと押し問答になりましたが「私に付き合ってくれたお礼だよ」とオッカが少し多めに出すことになりました。 「ありがとう、オッカさん!」  会計をしていたオッカは夢に顔を向けました。 「お互い様よ。私もありがとう」  オレンジ通りを歩く二人は、パソコンの値段を言ったらミゲロはどういう顔をするか、という話で盛り上がっていました。 「文句あんだったら始めから金を渡すんじゃないよ」  そう声を上げたオッカの手にはカフェ・オ・レソフトクリームが二つありました。ミゲロの封筒を限界まで薄くしようとしているようです。オッカはその一つを夢に無理やり渡しました。夢は笑いながら「ありがとう」と受け取ると、二人は食べ始めました。時時皆の話題に上がっていたカフェ・オ・レソフトクリームはとても美味しく、喉を甘く潤しました。でも夢の頭の中はその甘さだけでなく、オッカにどんなお返しをしようか想いを巡らせ上の空でした。そんな時夢はとても幸せそうな顔をするのです。  軽い足取りで歩いている二人は、ソフトクリームの山を崩しにかかっています。その山がなくなるとオッカは夢に訪ねました。 「今日は会いに行ったのかい?」  夢は照れくさそうにうつむくと「うん」と頷きました。そんな夢を見たオッカは大きく笑いました。そして夢の瞳を力強く見つめ、オッカははっきりと言いました。 「恥ずかしがる事じゃないよ。大好きな人なら、毎日会ったって足りないさ!」  夢は思いもしなかったオッカの言葉に耳を赤らめました。ただ、それは夢だけでなく、自分の言った言葉に気付いたオッカ自身も顔を赤らめてしまいました。 「ミゲロさん?」  夢がいじわるっぽく笑いながら尋ねると、照れたオッカは「バカ」と否定しました。夢は「ンフフ」と笑い、オッカの顔を覗き込みました。 「ミゲロさんきっと喜ぶわ」 「違うったら! あの人に言うんじゃないよ!」  オッカは視線をそらし、怒るように夢に言いました。 「エヘヘ、はーい!」  夢がそう言うとオッカは目蓋をグッと閉じました。夢のこの感じはきっとミゲロに言う、そう確信したオッカはカフェ・オ・レソフトクリームをコーンごと一気に口に放り込み、必要以上に強い力でサクサクサクと食べきりました。しかし、頭の中は図に乗ったミゲロの笑みがグルグル回ってオッカを苦しめます。そこから開放されようと目蓋を開くと、そこには夢の笑顔がまだありました。 「素敵な事よ!」  夢がそう言うとオッカはまた目蓋をグッと閉じ、「あぁ」と声を漏らしました。 「ンフフ、分かったわ、言わない! そのかわり今日の事はちゃんとお礼をさせて!」  夢はそう言うと持っていたリュックサックの中から一枚の新聞の切抜きを取り出し、オッカの前で広げました。 「ミロクおば様が持って来て下さったの! 人気のお店でとても美味しそうなメニューが沢山! ごちそうしたいから三人で行きましょう!」  夢はとても幸せそうな笑顔でそう言いました。誘いを受けたオッカも嬉しそうに何度も頷きました。断る理由はどこにもないのです。
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