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 ガタン、ガタン、ガタン、ガタンガタン。電車の揺れに身を任せ、おばあさんはロングシートの端に座り眠っています。  ガタン、ガタン、ガタン、ガタンガタン。おばあさんの隣に立つ夢は、ドアにもたれながら外の街並を眺めています。夢にとってとても馴染み深い景色です。今はもう心地よいけれど、ちくりと胸を刺すような、そんな懐かしさを感じ、夢はそっと瞳を閉じました。電車の揺れで眠るように夢の心に過去の記憶が映されました。父や母に会いに病院へ通っていた時の夢の姿でした。そして、直接見たわけではない、一人で病院へ通っていた父の姿でした。あの頃の父の体力はとても弱くなっていました。その体で父は、今の夢と同じようにこの電車に乗って通院していました。そして病院での治療が終わればまたこの電車に乗って家へ帰って行きます。夢の胸の奥でジワリとした痛みが広がりました。  夢はこの電車がどんなに空いていたとしても座る事はありません。病院に通っていた父がこの電車に乗った時ちゃんと座れていたんだと、父のように病院に向かう人がちゃんと座れますようにと、そう願っているからです。ただ、そんな前向きな気持ちだけではありません。父と一緒に病院へ通ってあげられなかった、一緒に行っていればもう少し長く、と、とても責任感が強い夢はそうやって今でも自分を責めてしまっているのです。そんなとても大きな後悔が、今の夢を突き動かすのです。そうやって父の存在はその命を懸け、夢を一人の人間として成長させてくれたのです。  そしてその想いは後に、とても重く難しい病にかかった母に注がれました。夢が母と一緒に過ごした全ての時間の中に、二人の中心に絶えず有ったもの、それは愛そのものでした。その愛が力と也、夢を頑張らせたのです。  しかしそれでもまた父の時と同様、天国へ旅立つ母を見送った後の夢に、自分が出来なかった事、やらなかった事、自分への甘え、それらが強い後悔として波のように何度も何度も夢に打ち寄せて来たのです。  夢が抱く後悔には誰の言葉も届きません。  例えそれが、ほんとうに夢だけを思った言葉だとしてもです。  父と母以外には。 「帰りにおば様が言ってたお店、クイナの駅のすぐ側のお店、行きましょうおば様! そこのパフェが美味しいって聞いてから私ずっと気になってたの」  診察室に呼ばれるのを待っているミロクおばあさんに夢が笑顔で話し掛けました。「いくつ新しい約束を作るんだい」と嬉しそうにおばあさんが言うと、その表情を見た夢はとても嬉しそうに唇をギュッと閉じました。今この瞬間がおばあさんにとって楽しい時間であってほしい、作る沢山の約束がそうさせてくれると夢は信じているのです。  病院の予約の時間が半時間ほど過ぎた時、ミロクおばあさんの名前を呼ぶ女性の声が聞こえ、二人の会話は止まりました。現実を感じ、どうしようもない鼓動が夢の力を奪ってゆきました。二人は腰を上げ、呼んだ事務員の方へ向かって行く途中、再度事務員に名前を呼ばれたので「はい」とミロクおばあさんは返事をしました。 「ミロクさん、それと付き添いの方ですね?」 「はい」  夢が頷くと、それを確認した事務員は「どうぞ」と言い二人の前を歩き始めました。そして案内されて向かったのは他の患者が入る診察室ではなく、大きな銀色の扉の奥の広い治療室でした。そこを抜けると、少し空間を区切ったような半個室の診察室が現れました。二人を待っていたのは六十代後半ぐらいの男性医師でした。診察室には椅子が用意されていて、医師に「どうぞ」と声を掛けられたので二人はそこに腰を下ろしました。今居る場所も、今のこの状況も、二人にとって良い雰囲気ではありませんでした。ここで話すという事は覚悟を持って診断を聞かなければならない、と感じたからです。医療現場の知識がなくても、この場所の雰囲気に触れてしまえば無理矢理にでも伝わってきます。  それでも夢は心の中で、良くない結果を跳ね返そうと抗いました。夢は普段通りの冷静な自分の姿を、隣に座るおばあさんに見えるように前のめりに座りました。大丈夫、怖くない、おばあさんにそう伝わってほしいからです。夢は、隣に居るおばあさんの方にそっと視線を寄せました。医師の言葉を待つおばあさんの表情は、いつもと変わらない様に見えるのですが、夢だけはおばあさんの心の表情に気付けました。それは、恐怖と不安に捕らえられたおばあさんの心でした。  大丈夫、大丈夫、大丈夫。  夢は心の中で何度も繰り返し叫びました。心の力がおばあさんに届くようにと夢は力強い眼差しをおばあさんに向けました。  大丈夫、大丈夫、大丈夫。  夢は心の中に芽生えた恐怖や不安をその奥底へと必死に押し込めてゆきました。  おば様を絶対悲しませない。絶対つらい思いをさせない。何があっても絶対治してみせる。絶対大丈夫。絶対死なせない。  夢は全身全霊を捧げた決意を心の中で叫びました。  そして医師の話が始まりました。  やはり、重い診断でした。多くはないけれど、長い医師の人生の中で幾度となくしてきた説明なのでしょう。医師の顔は、深刻そうな、心苦しそうな、そんな表情でした。話に入った医師は、初めて来院した日から今日の結果までの経緯を話してくれました。検査の結果を踏まえ説明をしていったのですが、おばあさんが検査を行ったのはこの病院が初めてではありません。おばあさんはいくつもの病院へ通い、そのたびに検査を行ってきたのですが病名は出ませんでした。それはつまり、自分の体で何が起こっているのか分からない不安と恐怖を抱えながら、日日を過ごしてきたという事です。一人で検査に耐えてきた姿、一人で診断を待つ姿、夢の頭の中にその姿が映し出され、どうしようもない辛さに握り潰されそうになりました。  だから夢は「大丈夫、大丈夫」そう強く想う事で、それほど悪い結果ではなかったと思える未来を切り開こうと必死になりました。今の夢には願う事しか出来ないのです。  医師の話は続きました。  この病気が判明するに至った経緯を医師は話しました。  夢の心の中で「ALSって言わないで。ALSって言わないで」という願いが広がりました。  寿命や延命も含めたこの病気の予後を医師は話しました。  夢の心の中で「ALSって言わないでALSって言わないで」という恐怖が広がりました。  そして、とても重い難病だという事を医師は簡潔に話しました。  夢の心の中で「ALSッて言わないでALSって言わないでALSって言わないで小脳何とかとか別の病気もあるALSって言わないで大丈夫大丈夫おば様は大丈夫」と。  そして医師は検査の結果を話しました。 「筋肉が衰えていく病気です。ニュースとかで出たりするのですが、筋萎縮というのは聞いた事がありますか? 病名を筋萎縮性側索硬化症、ALSと言います」 「どうしよう怖い」  それは隠す事の出来なかったミロクおばあさんの声でした。涙がこぼれ落ちそうなミロクおばあさんの顔を見た瞬間、夢は、今日一緒に来た本当の理由が分かりました。この瞬間のためでした。 「大丈夫。大丈夫だから」  夢の言葉が聞こえた途端、ミロクおばあさんの涙はスッと消えてゆきました。  そしてこの瞬間から、ミロクおばあさんの弱い姿を見る事は二度とありませんでした。
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