35「背景」

1/1
1198人が本棚に入れています
本棚に追加
/57ページ

35「背景」

   平成十一年の現在から遡ること四十年前と言えば、1959年、昭和三十四年である。  当時を振り返る事の出来る長谷部さん、岡本さんは、三神さんの言葉に顔を見合わせ思案した後、「あ」とという言葉にもならない声を上げた。しかし長谷部さんはすぐに思い留まるような複雑な表情を浮かべると、 「それはひょっとして、『伊勢湾台風』の事を仰ってるんですか?」  と小声で尋ねた。すると、 「いやいや、それにしたって」  と岡本さんが懐疑的な声で長谷部さんを遮る。  伊勢湾台風と言えば、丁度昭和三十四年のその年、紀伊半島および東海地方を中心とし、ほぼ日本全土に甚大な被害をもたらしたという戦後最大の自然災害である。命を落とした犠牲者は五千名近くにのぼり、負傷した被災者は四万人近いという凄まじい規模の大型台風だったそうだ。 「確かに東京でも暴風や大雨などの被害はあっただろう。しかし…」  そう言う岡本さんの意見に対し、 「もちろん」  と三神さん頷く。「伊勢湾台風が日本を蹂躙した九月、時を同じくしてあの山で崩落が起きたわけではない。だが一つの要因であったことは間違いないでしょう。ワシは土地開発に対して詳しいわけじゃないが、物の本では、傾斜地と呼ぶのですかな、特にああいった山などは崖崩れなどの災害の危険性を考慮し、平坦な土地よりも開発費用や時間も多くをとられるのだとか」  三神さんの説明に対し、長谷部さんが頷いて補足する。 「というよりも、宅地造成が行われる際にですね、仰るような崖崩れや出水が起きる場合があって、それを未然に防ぐための措置が事前に必要になるわけなんです。それにしたってただ土地をならすという目的ではないし、家なんかをおっ建てる為にやるのであれば自治体への開発許可がいる。ただ山を平らな土地にすれば家が建つなんていう簡単な話でもないですから、いわゆる社会基盤施設と呼ばれるインフラを敷く事も含まれるもんで、そりゃあ結構な話ですよ、色んな意味で」  三神さんは満足そうに頷き、再び長谷部さんの後を継いだ。 「もともとあの土地が山であった当時から、すでに麓に集落が存在していたことはご存知ですか?」 「……いや?」  長谷部さんは青ざめた顔で一瞬岡本さんを見、そして首を横に振った。 「そうですか」  と三神さんは続ける。「元々あの場所は、宅地開発には向かない、というのが専門家の意見としてあったそうです。地盤が緩いんだそうで。標高の高い山ではなかったが、ハゲ山と言うのか、傾斜のきつい斜面が剥き出しになっているような断崖があったようなんです。もちろん山ですから、本来その多くは木が生い茂っている。そういった木々の根が地滑りなどを食い止める役割をしているそうですが、雨風にさらされるうち、少しずつ地形が変化していった。そして、昭和三十四年が訪れた。件の伊勢湾台風による被害が、崩落の引き金となったと考えて間違いないでしょう」  土砂災害……。  僕や長谷部さんが古地図で確認した、以前あの土地が山であったという履歴は間違いではなかった。しかし土地開発事業によって住宅地へ生まれ変わったわけではなく、自然災害によって崩壊した山を整備し直した後、やがてあのマンションが建てられたのだ。  長谷部さんと岡本さんは奇しくも、二人揃ってあの土地の人間ではなかった。例え同じ東京に暮らしていても、四十年前の、名もなき山の土砂崩れによる被害など憶えていない、というのが現実だった。  だが、 「集落があったってことは、人が死んだのか?」  そう言ったのは、池脇さんだった。  。  彼の放った一言に、場の空気がピンと張りつめた。  そうだ。僕たちは今、歴史の勉強をしているわけではない。  三神さんは黙って頷いた。 「いわくつきの土地ってやつか」  尚もそう言う池脇さんの言葉に、長谷部さんと岡本さんの顔から血の気が引いていくのが見てとれた。最早その顔は青ざめたというよりも……色がない。 「たくさん、お亡くなりになられたのですか?」  文乃さんの質問に、三神さんはまたもや神妙な面持ちで、頷くにとどめた。  俯いている長谷部さんの白くなった顔にはしかし、怒りがあるようにも思えた。彼があの土地を手に入れた際、不動産会社とどのようなやりとりが交わされたのか、それは僕の知る所ではない。しかし長谷部さんがあの土地にまつわる悲劇を知らされていなかった事は不運でしかなく、元来不動産会社に法律上の責務がないのか、それとも悪意をもって隠匿されたのか、そのどちらにせよ今長谷部さんにあるのは諸々の後悔だろう。 「だがよ、自然災害で亡くなった人たちがあの場所にいたんだとして、それが四十年も経った今頃んなって化けて出るかね」  そう言った池脇さんの疑問はもっともだ。しかし若干、表現の仕方に難があった。文乃さんは彼の名を呼んでそこを窘めたつもりだったが、当の池脇さんには通じなかった。 「なんだよ」 「いや」  そこへ三神さんが割って入る。「池脇のの言いたい事こそ、ワシが先程申し上げた解明できぬ謎というやつだ。何故今、長谷部さん所有のマンションにてあのような怪現象が起きているのか。事象の背景には辿り着けた。だが、『何故』の部分が分からない。ワシらは当初、もの凄く臭いなにかを撒き散らす得体の知れないあやかしの類を念頭に置いていた。だが違った。土砂災害によりあの場所で亡くなった、百名を超える被災者全員の悲鳴なのだよ」  ひゃく……。  隣に座る辺見先輩の震えが、触れているわけでもないのに伝わって来た。彼女は自分の携帯電話を媒介にして、直接耳の中に無念の叫び声ともいうべき不浄の霊障を流し込まれた。その時にはそれが何であるのか、僕にも辺見先輩にも知りようがなかった。だがその背景を知ったからといって、「ああ。なるほどな」と冷静に受け止められるわけではない。透明だった恐怖に、かえってくっきりと色がついたようなものなのだ。 「そんなに死んだのか」  呟きに似た池脇さんの言葉は、僕と同様、災害の規模が想像を遥に超えていたことを物語っていた。  あの場所で、百人以上の人たちが……? 「災害についての記録は、探せば図書館などで新聞記事を閲覧できる」  頷いて、三神さんは言う。「崖崩れ、斜面崩落、そして土石流。自らの住まう家ごとそれらの下敷きとなった、百名もの犠牲者が今も叫んでおる。辺見嬢の携帯から、ワシも彼らの声を聞いた。だがおそましいとは言うまいよ。ただひたすらに悲しいとワシは思うね」  それから三神さんは居住いを正して、僕をじっと見た。 「新開の。西荻のお嬢から聞いたところによると、お前さんはバス通りからマンションへと伸びる道路の両脇を行進する、あの世の者を見たそうだね」 「はい。彼らがつまり、亡くなられた犠牲者たちというわけですか?」 「ワシはそう思う。お前さんはワシよりも明瞭に彼らの姿を捉えられるようだが、そうは見えなんだかね?」  僕はこれまで、動く霊体の姿をほとんど見た事がなかった。じっとそこに立っているだけなら人間と区別がつかないレベルで視認出来るのだが、ひとたび彼らが動こうものならゆらめく蜃気楼のように、姿形がぼやけて崩れてしまう。マンションに向かって僕の側を行進していた彼らもまた同様だ。そこにいるのはわかる。だがその人型が男女どちらであるのか、あるいは服装がどのようなものであったかは、僕には識別出来なかった。 「なるほど。かくも危うき、存在の頼りなき者たちであるといういかにも本質をついた話であるなぁ」  感心する三神さんの言葉に、僕の方こそ改めて合点の行く思いがした。本来そこにいるはずのない霊体、この世ならざる者であるが故の『見え方』だったというわけか……。 「あのー……」  おずおずと自身の手を顔の横に持ち上げて、岡本さんがこう尋ねた。 「ゴミはぁ……」    
/57ページ

最初のコメントを投稿しよう!