8「事象」

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8「事象」

   文乃さんから聞いた話である。  管理会社から派遣され、『レジデンス=リベラメンテ』の管理人を務める岡本さんの話では、異変に気が付いたのは今年の夏の初め、との事だった。 「ゴミがね、ぽつりと落ちてるんだよ」  その言い方がなんとも奇妙だった、という。たまたま路上で見かけたとかそんな話ではない。岡本さんが日課としている、マンション清掃での話なのだ。 「色んな作業を私一人でやってるんだけどね、中でも一番重労働なのはやっぱり掃除なんだよ。だから自分の中でルートと手順を決めて、毎朝午前中一杯かけてやるわけ。今はゴミ出しの日も分別方法もきちーと決められてるからね、さぼったりしなきゃ、ゴミなんてそう溜まるもんでもない。だけどね、ゴミがね、ぽつりと落ちてるんだよ。廊下にね」 「もちろん、掃除し終わった後の廊下、という事ですよね?」  文乃さんの問いに、岡本さんは神妙な面持ちで頷いた。 「ゴミ、とひと口に言っても色々ありますが、どのような?」 「ああ、ゴミ袋みたいなのを想像してるんなら、違うよ。あれは何かなあ、剥き出しの、生ゴミのような」  生ゴミ?  文乃さんはピンと来て、 「匂いの正体というのは、それですか?」  と聞いた。すると岡本さんはマンションオーナーである長谷部さんと顔を見合わせて頭を振り、違う、と答えた。  このマンションのゴミ置き場には、蓋つきの大きな鉄製の箱が四つ並んでいる。左から二つは可燃ごみ。右二つが不燃ゴミと、空き缶・空き瓶を分けて入れる箱として使われているそうだ。当然各家庭から出るゴミはその段階で専用のゴミ袋に入れられる為、管理人である岡本さんの目に触れる機会はほとんどないという。カラスなどの鳥害を考慮しての蓋である為に、散乱している現場にも滅多に出くわさない。生ゴミが廊下に落ちていた事など、この年の夏になるまで一度もなかったそうだ。  しかし生ゴミと言えど、これはこれで色々ある。キッチンの排水溝などで受け止めるような、例えば野菜の皮とかヘタとか切れ端だとか、あとはバナナの皮とか、それこそ残飯だってあるだろう。 「生レバー……みたいな」  岡本さんがそう言った途端、文乃さんは突き上げて来る吐き気に口を押さえたそうだ。廊下にポツリと……レバー? 「あんまり近くに顔を寄せて見れたもんじゃないよ。なんか、薄気味悪いんだよね。赤黒いというか」 「それは、大きいんですか?」 「サイズはこんなもの」  岡本さんが片手で作った輪っかの大きさは、ゴルフボール程の大きさだった。  気持ちは悪かったが、ゴミはゴミである。管理人としては掃除するほかなく、時折顔を出すオーナーの長谷部さんには報告するものの、だからと言って解決策など考えても無駄だと分かっていた。ゴミなのだ。誰かが落とすか捨てるかする現場を押さえねば、こちらとしても注意のしようもない。 「その頃からですわ。私も最初の頃は何を言ってるのか分からなかったんだけど、異臭がするというクレームがちょくちょく、この管理事務所に入るようになってね。朝でも夜でも、昼夜問わず、だもんで、ここに寝泊りして、呼ばれたらせっせと見に行く」 「現場は、住人の方の部屋なんですか?」 「の時もあるし、廊下とか、エレベーターとか。階段だった事もあるし、色々。だけどね、これは毎度そうなんだけど、私がそこに辿り付いた時には何も匂わないんだよね」 「皆さん、同じように悪臭がすると?」 「そう。どんな匂いなの、もうしないじゃないって言うとさ。皆怒っちゃうのよね。あんだけ臭かったのにおかしい!なにかあるはずだ!って。何かって言われてもさ、現場には何もないんだよ」 「例の、ゴミも?」 「ないね。あっても、そのゴミが臭いと感じた事はないよ。無臭ではなかったと思うけど、そんな大騒ぎするような匂いはないね。まあ、あんまし顔近づけてないから断言は出来ないけどね」 「どんな匂いなんですかね、その、実際に住民の方達が嗅いだ匂いって」 「それがさー」  痛い、と皆口を揃えるそうだ。  例えば糞尿や吐瀉物、他人の汗や唾液、そして腐敗臭など、そういった強烈に不快な匂いが自分の周囲を取り囲み、一瞬にして地面から湧き上がるように立ち昇る。その勢いと匂いの量に鼻目が潰される、そう錯覚する程痛くて臭いのだという。実際クレームを入れる住人は、誰もが涙や鼻水を垂れ流し、咳き込みながら助けを求めてくる。その様子は確かに只事ではないと感じるし、岡本さんも住人たちが口を揃えて嘘をついているとは考えていないそうだ。 「一度経験した住人はなんか敏感になっちゃってね。ちょっとでも何かが臭いと、またアレが来るんじゃないかと怯えるみたいでね。こっちも日課の掃除頑張んないと、今まで以上に目が厳しいんだよ」 「だけど、対策のしようがない、と」  岡本さんに代わり、今度は長谷部さんが頷いて、答える。 「こっちもね、何もしないまま指くわえて住人が出て行くのを見てらんないからさ。藁にもすがるつもりで、色んな横のつながり頼って情報収集したんだけどね。わけ分かんないんだよ。原因が分かれば対処のしようもあるけどさ」 「お二人はこれまで、匂いを嗅いだことは一度もないんですか?」  ない、と二人ともが首を横に振った。 「これまで、ざっと何人くらいの方が被害にあわれたんです?退居された方も含めて」  岡本さんと長谷部さんは顔を見合し、無言で相談し合う表情を見せた。文乃さんには依頼事で来てもらったとは言え、同じマンションオーナーという立場もあって、体裁を気にして返事を渋っているのだろうと思われた。が、やがて決心したように長谷部さんが答えた。 「うちのマンションは八階建てで各階四部屋あるから、三十二世帯なんだよね。ひとつはここの管理事務所にあてているから、実質三十一だ。この夏を迎えるまではおかげ様でそのうち二十九世帯が埋まっていたんだが、先月までで、十二世帯が出ていったよ。今月も、出て行く予定の家族が何組か……」 「十二……」  文乃さんが想像していたよりも、事態はずっと深刻であった。 「……あの、被害に合われた方々の部屋番号や、お名前を教えていただく事はできますか?」 「そりゃさ、こっちから依頼してるからね、それなりの協力はさせてもらうけど。くれぐれも個人情報は慎重に扱ってよ。学生さんもいるみたいだし、そこらへん雑にされるとアレだから」 「もちろんです」  
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