27「信仰」

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27「信仰」

   パンドラの箱……。  三神幻子は僕のことをそう表現した。  あらゆる災難が詰まった壺。禁忌。タブー。そういった意味である事は当然知っている。そして彼女の語った僕の引き起こす禍いというのは、『霊道をこじ開けてこの世ならざる者を顕現させる』という、信じがたい程子供じみた、正しく奇想天外としか言い様のない現象であった。  軽妙でありながら行き過ぎない節度を弁えた三神さんが気を遣い、 「ま、そういう説もあるってェ話なだけであって」  と取り繕ってくれなければ、僕は全ての責任が自分にあると早合点して首をくくっていたかもしれない。  僕は幻子の言葉を頭から信じたわけではない。しかし色んな人間を巻き込んだ此度の事象の責任が、全て自分にあると言われたのだと思い込み、奈落の底へ真っ逆さまに転がり落ちた気がしたのだ。  そもそも当初聞いていた話では、『レジデンス=リベラメンテ』で起きている怪異については幽霊の目撃証言は一切なかったのだ。ところが、現場を訪れた日に遭遇した地獄のような悪臭の怪を除いても、岡本さんの部屋で見た子供の幽霊、大通りからマンションへと通じる街路脇で見た行進する亡者たち、文乃さんとしばしの時間を過ごした管理事務所のすぐ側まで来ていた死霊など、僕はこの目で多くのこの世ならざる者を見ている。  おかしいとは、思っていた。だが現場に居合わせた人たちが、皆普通ではなかった。文乃さんや池脇さん、三神さんなど霊的に影響力のある者達の出現によって、それこそ吸い寄せられるようにして集まってきたのではないのかと、なんなら僕は「巻き込まれた」とすら思っていたのだ。  それら全てを、僕が呼んでいたというのか……?  一体僕はどんな顔をして辺見先輩に会えばいいんだ。  どんな顔をして、文乃さんに会えばいいんだ。  あなたが調査している現場を引っ掻き回しているのは何を隠そうこの僕です、そう言えってのか…? 「気取ってんじゃねえぞー、少年ー」  大学の図書室で、辺見先輩に声を掛けられた。  先輩が退院してから四日が経ち、僕が大学を休んだこともあって、あの事件以来初めて顔を会わせたのがこの時だった。  本棚の端と端に立って僕たちは見つめ合い、次の言葉を探した。もう先輩とは会わない方がいいと考えた日もあった。もしかしたら、彼女は僕に気があるんじゃないかと、自意識過剰な理由をこじつけた夜もあった。だが僕はそんな自分を猛烈に恥じたし、出会ってからこれでまで僕の事を気遣ってくれた彼女への恩を思うと、理由を探すことすらおこがましいと自分をたしなめた。社交性の塊である辺見先輩は、等しく誰にでも優しく、人間としてとても気高い女性なのだ。僕は単に、出会いに恵まれていただけなのだ。 「お元気そうで」  努めて平静な口調でそう言うと、辺見先輩は、 「へっへーん、おーかーげーさーまーでー!」  と、尻上がりに語尾を強めながら大股で歩み寄ってきた。 「何見てんの」 「地図です」  僕は棚から抜いた大判の書籍を、傍らの机の上に開いた。 「……ん、んー」  辺見先輩が覆い被さって覗き込む。「なんの地図?」 「古地図です」 「長谷部さんが調べものに使ったっていう、あれ?」 「同じ物ではないと思いますが。少し気になって、僕も調べてみようかと」 「例えばどんなところが?」 「分かりません」 「ははーん、さては文乃さんの受け売りだね?」 「……まあ、そうです。先輩帰ってもいいですよ」 「そー怒るな怒るな。……カマかけたらあっさり認めるんだもんなあ」 「なんですか?」 「いーのいーの」  僕は大袈裟に溜息をついてみせたが、内心これっぽっちも怒ってなどいなかった。 「東京の、このあたりの古地図はいくつも出ているんです。専門的な書物以外にも、雑誌のように薄くて大判の、これみたいにわりと新しいものも発刊されています」 「ということは、情報自体は古くないんだね」 「そういう事です」  僕は机に重ねて置いた中から一冊の本を抜き出し、辺見先輩にも見えるように広げた。 「このカラー写真は、発行日で言えば一番新しい書物に掲載されています。それから、今棚から抜いたこの地図。こちらの発刊は今から十五年程前ですが、見比べる限り……」  辺見先輩は机に覆い被さり何度も二つの地図を見比べて、やがて体を起こした。 「同じ、だよねえ」 「はい」  同じなのだ。やはり長谷部さんから聞いたとおり、リベラメンテが建っているあの辺りは、四十年前までは山だった。それ以上の答えは探しようがないと、僕でもそう思う。 「山、か」  辺見先輩がそう呟いて目を閉じた。 「先輩、やっぱり目の下にまだクマが出来てますね」  僕が見たままを言うと、先輩は分かりやすく怒った表情を作って僕の腕を叩いた。 「心配してるのに」 「女子に向かって顔の話はするな!これは先輩命令だ!」 「すみません」 「……のかみ」 「え?」  山の神。辺見先輩はそう呟いた。  ……神さまを、怒らせたんじゃないか、と。 「山神信仰というやつですか。でもそれだと逆じゃないですか。もし、昔あの一体に暮らしていた人々が山の神を奉っていたのであれば……」 「おかしいか。……おかしいよねえ」  あれ?今僕は何を言おうとしたんだ?  途端に言葉がつまり、その先が出てこなくなってしまった。 「じゃあさ、三神さんに直接聞いてみたら?」  そう言うと、辺見先輩はスカートのポケットから自分の携帯電話を取り出した。 「直接? ああ、まあ、詳しそうですものね、そういった関係の事は」 「それもそうだし、長谷部さんと地図の事で話をしていたのって、あのおじさんだよね?」 「……確かに」  三神さんはツーコールで電話に出た。  どうしたー!またなんかあったかー!  怒鳴っているくせにとても優しい彼の声が、直接携帯を握っているわけでもない僕の耳にまで届いた。辺見先輩は口をへの字にして電話を遠ざけ、そして苦笑したまま再び左の耳に添えた。  先輩は、あの日岡本さんのご自宅で長谷部さんと話していたリベラメンテの土地に関する話題を、そのまま三神さんに尋ねた。途中、子供の霊に皆が騒然となったおかげで話が中断してしまったが、本来あの場で三神さんは何を確かめたかったのか。そして僕たちが考える、山の神という推測については、どのように思われるのか。 「山ぁ? お前さんらの言わんとしているものが、いわゆる山岳信仰と呼ばれるものを指しとるなら、可能性は限りなく薄いなあ」  と、三神さんは答えた。 「山の神と一口にいうても色々ある。山そのものを大自然に対する敬意として恐れ敬うものと、お前さんらが言いたいのであろう、山に神さんが住んどるとして奉る宗教だな。だがそのどちらの場合でも、この東京にはそういった風習は生き残っとらんとワシは思うね。もしそれを本格的に、というより宗教的観念から信仰の対象にしたいのであれば、東京ではなく、もっと名の通った霊験あらたかな山岳が関東近郊にもようけあるからなぁ」  何かやむにやまれぬ理由があって世間に公表してないだけで、実は小さく狭い範囲で土着信仰が生き残っていた、などと言う事はないだろうか。 「何のために」  三神さんの反応は早かった。聞きかじりで覚えた僕らの付き焼き場な知識など、彼にとっては言葉遊びにしか聞こえないのかもしれない。 「山岳信仰が権力者の圧制にあって迫害された記録などどこにもないぞ。どちらかと言えば表だって公表出きない後ろ暗い信仰や儀式の隠れ蓑として、山の神さんは利用されてきた節もある。山岳信仰自体は今も林業や地方農家の間で受け継がれとるし、そもそも隠すようなものではないわな」  ならば。  あの土地に古来から住まう神の存在が影響しているわけではないとすれば、三神さんは長谷部さんに何を聞きたかったというのだろう。 「履歴だよ」  即答だった。「長谷部さんは昔の地図を見て、山を切り開いてあの辺りの住宅地が作られたと言っていた。だが、おそらくそれは違うんだよ」  違う?  何が、違うというのだろう。  そわぞわと、僕のうなじから背中にかけてに、生々しい温もりが這いまわるような感触があった。  辺見先輩の相槌が止み、三神さんの声が聞こえなくなった。 「……先輩。……辺見先輩、もし出来るなら、僕の背中を今すぐ叩いてくれませんか」  だが、辺見先輩は震えていた。携帯電話を耳に押し当てたまま、右目がぎゅっと閉じ、左目が開いたり閉じたりを繰り返していた。  キーン。  ごっごごわごわごおおごわわわごおごおごご。  明らかに三神さんの声とは違う高温と低音が入り混じったようなノイズが聞こえ、僕は思わず先輩の手から携帯電話を叩き落した。  辺見先輩の体が左に傾き、僕は両手で彼女を抱き止めた。  恐ろしい程の高熱が衣服の上からでも感じられ、そしてわずかに、辺見先輩の体は臭かった。
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