29「奈落」

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29「奈落」

   文乃さんの到着にいち早く気がついたのは、辺見先輩だった。  不思議なことに、霊体でもなんでもない生身の女性である文乃さんからも、特別な気配が感じられるという。医務室のあるこの棟に彼女が足を踏み入れた瞬間、何かがふわりと体に触れたのが分かったそうだ。その何かは目に見えない空気のような質感にも関わらず、温かかった、と先輩は言った。 「本当に、霊感あるんですね」  責める気のない、実感のこもった声で僕がそう言うと、 「黙っててごめんね」  と、やはり意図しない答えが返ってきた。 「僕は見えるだけで、感じる方の力は辺見先輩ほど強くないんで、正直ちょっとうらやましいです」 「普段はそこまでじゃないんだ。なんか変なのに入り込まれて、過敏になってる気がするよ。それにさ、本当、こんな体質いらないって」  本気で嫌がる彼女の経験した事を思い起こせば、僕の言葉は軽率すぎた。 「すみません」 「……彼女は不思議な人だねえ。君が好きになるのも分かるよ」 「え?」  辺見先輩の言葉は、僕に対する単なる意趣返しには感じられなかった。 「ただ見た目が可愛いとか、包容力があるとか、大人の女性だとか、そういう事でもない気がするね」  僕は慌て、 「ちょっと、聞こえたらどうするんですか、もうすぐそこまで来てるんじゃないですか?」  と腰を浮かせて外の廊下を振り返った。 「今まだ下の階だよ。……なんというかな、私たちにはない、何か覚悟のようなものがあの人の目には浮かんでいる気がするんだよ」 「覚悟?」 「知り合って間もない小娘に何がわかるってんだって、自分でも思うけどね。だけど、そんな気がするんだなあ。新開くんは、文乃さんのどこが好き? 可愛いとか以外で」 「ちょっとやめましょうよ、本気で」 「まだ今階段だよ」 「……」 「……早く言わないと昇りきっちゃうよ」 「そう言われても」 「この階に来た。……そこの廊下にさしかかる」 「自分でも、よくわかりません」 「私には分かるよ」 「え?」  くしゅん! 「ッはぁ!」  そのくしゃみの主である文乃さんの声は、僕たちのいる医務室のすぐ外から聞こえた。僕はぎくりと背筋を伸ばし、廊下に飛ばした視線をゆっくりと辺見先輩に戻した。先輩は左手でお腹を押さえ、右手で顔を覆って大笑いしていた。  大学の医務室で籠城していた僕たちのもとへ現れたのは、文乃さん一人だった。池脇さんは仕事の都合で現在東京を離れているらしく、連絡は取れたものの、どうしても今すぐに戻る事はできないと断られたそうだ。悩んだ末、やはり文乃さんには無理強い出来なかったという。だがこちらとしても、三神さん師弟の助力を受けて大事には至らなかった手前、かえって文乃さん一人が来てくれた方がありがたかった。  急な呼び出しに応じて下さった事にまず礼を言い、その後でこうなった経緯を改めて説明した。大学の図書室で調べ物している最中、疑問点を相談するべく三神さんに電話を掛けたところ、辺見先輩の耳から悪意の塊のような霊障が侵入した。そして僕たちが逃げ込んだこの医務室においても、まるで辺見先輩を真っ暗闇に引きずり込まんと誘うように、発信者不明の着信により携帯が震え続けていた……。 「今もですか?」  息を呑み、顔を寄せて覗き込む文乃さんに、辺見先輩は笑顔とVサインを見せた。 「また、幻子さんに助けてもらっちゃいました!」 「そうでしたか! 今は……もう平気なご様子ですね。私にも、辺見さんの体からは何も悪いものは感じません」 「はい。良かったー!」  悪いもの……。  僕はぐっと唇を噛んだ後、ずっと気になっていた疑問を文乃さんにぶつけてみた。悪霊の存在についだ。 「……それは、先日のまぼちゃんとのやり取りの事を仰っていますか?」  文乃さんの問いに、僕は頷き返した。  正直に言えば、僕はこの世に戻って来る霊魂が存在するのであれば、悪霊なる存在もいると認めてしまった方が気が楽だと思っている。幻子の主張はどこか人類に対する性善説を思わせ、否定は出来ないが、綺麗ごとのように感じてしまう己の内なる黒い部分を、一刀両断する事もまたできないのだ。僕みたいな奴は、世の中にきっとたくさんいるはずだ。 「これは、彼女の師匠であり親代わりでもある三神三歳さんの、受け売りになってしまうのですが……」  そう断りを入れてから、文乃さんは言った。 「例えば、こちらの辺見さんに起きた霊障であったり、新開さんも体験した黒い何かに包まれる恐怖などは、それ自体に悪意や悪魔的な意思は、おそらくないのではないかというのが、三歳さんや私の意見です」 「あれだけはっきりとした悪意に呑まれたというのに?」 「規模や強さはあまり関係がありません。そうですね……」  文乃さんは少し思案し、何かに気づいたように外の廊下を振り返った。 「……今、丁度あの辺りに、あまり気持ちのいいとは言えない何かがいませんか」  文乃さんが指をさした辺りには、恐らく僕の投げ捨てた辺見先輩の携帯電話が転がっているはずだ。 「確かに」  僕が頷いて返事をすると、文乃さんはそちらを注視したまま、 「ああいったものはきっと、霊障自体が人に害をなすことはあっても、そこには霊体が発する意志などは介入しないのではないか、そう思うわけです」  と言った。それはある種のなぞかけのような、持って回った表現にも思えた。文乃さんは僕らに視線を戻し、 「例えば、私たち人間が道を歩けば、ともすれば気付かぬうちに小さな虫たちを踏み殺す事もあるでしょう。しかしそこに虫に対する殺意はないはずです。ただ道を行く、その事が結果彼らに害をなしている」  そう語った。  なるほど、と僕と辺見先輩は素直に頷いた。 「人を呪う。……そこには生きる者の悪意が存在します。ですが、この世を去った者たちの彷徨える霊体が、なにかのきっかけでこちらの世界へ舞い戻って来ることがあったとしても、そこで人と同じく思考する回路を持たない彼らから、悪意が発せられる事はない。ゆえに、悪霊などいない。……まぼちゃんの言う理屈は、そういう事です」  分かる気はする。いや、きっと頭ではとてもよく理解している。しかし違うのだ。僕が言っているのはそんな理論的な範疇にいない、それこそ人智を越えてしまった存在の話なのだ。  僕の隣で、辺見先輩が文乃さんに向かって顔を寄せた。 「死ぬ前に、人を殺したい程の憎悪を抱えたまま亡くなっていった人の魂は、どうなりますか?」  文乃さんは唇を結び、浮かない表情で下を向いた。 「霊感や、それこそ専門知識のない私に確かな答えを用意する事は出来ません。これも、まぼちゃんの語る一つの意見として聞いていただきたいのですが、いわゆる死後の世界というものは、ないそうです」  改めて聞く文乃さんの言葉に、僕は何故だか背筋が凍る程はっきりとした戦慄を感じた。あの世など、死後の世界などない方がいい。それはそうなのだ。幽霊などいない方がいい。怖いものなど見たくはない。  しかし、こうして文乃さんの口から聞く「ない」という言葉は、まるで終わりのない深淵の穴を連想させ、とてつもない恐怖を僕の心に植え付けた。何一つすがるもののない、永遠の虚空をひたすら落ち続けるような怖さだった。 「死んだら終わり。そういう事ですね」  辺見先輩が辛うじて文乃さんに聞き返す。 「はい。そこにはなにもないそうです」   僕はこの三神幻子の語ったという死生観が、これまで聞いたどんな怪談話よりも怖いと思った。 「どれほどの思いを抱えていようと、命が絶えた瞬間、人はどこにも行かず、ただいなくなるんだそうです。私はこの話をあまり人には言いたくありません。それはあまりにも無情で、あまりにも冷酷な話だからです。三神さんも、宗教的観念が僅かたりとも入り込む余地のないまぼちゃんの意見は、全くもって救いがないと、そう、嘆いていらっしゃいました」
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