30「秘密」

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30「秘密」

「何一つ意志を感じないとは、私は思いませんねえ」  意外にも、そう話すのは辺見先輩だった。言葉の意味は幻子の死生観に対する反論に違いなかったが、彼女の声にも、表情にも、どこにも攻撃的な嫌味は感じられなかった。  文乃さんは尋ね返すことをせず、辺見先輩を見つめて言葉の続きを待った。 「亡くなった人が、私たち生きる人間と同じように、頭で考えることはないんだっていうのは、その通りだと思います。でも、私は人の魂や思いは、この世に留まり続けることだって、あり得ると思いますよ?」  文乃さんは噛み締めるように目を細め、辺見先輩の話に何度も頷いた。 「幻子さんが何を見て、何を知り得たのかはこの際置いといて、少し、私の体験談をお話します」  黙って耳を傾けていた僕の目を、辺見先輩が突然見つめ返してきた。 「初めて新開くんと出会った時のことです」  僕?  ……僕の話をするのか? 「今はもう知られてしまったことなので今更隠し立てする気もありませんが、私にも、多少なりとも霊感があります。……今年の春のことです。新入生として入って来たその男の子はよく、一体の女の幽霊を連れて歩いていました」  ……最初は、その男の子に自覚があるのかないのかすら分かりませんでした。私は見えると言っても、人によって感度や強度に差があるのと同じで、ほとんどの場合色もなく、形も定まらない状態で幽霊を見る事が多いんです。表情を視認することはそもそも出来ません。顔の中心はほとんど黒に近くて、白い輪郭の中で、目や口の部分が影のように塗りつぶされたような印象で、全体的には人型の影といった方が良いほどの見え方です。  でもその女の幽霊は、白黒ながら、はっきりとしたシルエットで見えたんです。いつも、まるで糸でもくっついているのかと思う程、その男の子のすぐ後ろを音もなくスーっと移動しながら付いていくのを見ていました。  その内、その男の子が私の所属する文芸サークルに入部してくる事が分かって、それとなく近寄ってみたんです。その幽霊は特に悪意や、その男の子に対する憎しみのような気配を放っているわけではありませんでしたが、これならひょっとしていけるのかもしれないと思い、ものは試しだと思って、自分なりのやり方で祓ってみたんです。  バシ!っと、ええ、肩や背中を叩きつつ気を送り込む、文乃さんの劣化版みたいなアレです。結果は上々、その幽霊は周囲の空気に溶けるように消えていなくなりました。はぁーー、よし。  ……だけど問題は、ここからです。その幽霊は、何度祓っても必ず戻ってくるんです。それはそれは、怖かったです。だけど物は考えようで、戻っては来るけど、祓えるには祓える。だったら、私が側にいて見てあげられる三年間くらいは、面倒臭いけど、まあ、それでいいのかなぁと思って、それでまあ、事あるごとに稚拙な除霊を行ってきたわけなんです。  面白いのが、割と早い段階からその男の子にも霊感が備わっている事は聞いていたのですが、彼は自分に取りついているその女の幽霊だけは知覚出来ないようでした。ということはこれは何か、守護霊とか背後霊とか、そいった類のものなのかもしれないって、段々とそうやって良い方向に考えるようにもなりました。  幸いその男の子は見える体質ではありましたけど、思い悩むほど霊障を受けやすいタイプでもなかったし、ちょっとだけ風変りで人見知りな、あるい意味どこにもでいるただの文学青年です。  あまり気にし過ぎない方が、その子の為にも、私自身の精神衛生上も、良いのかもしれないなぁ。そう思い始めた矢先。……文乃さん。あなたに会いました。 「……え?私ですか」  文乃さんは夢から覚めたように何度も目を瞬かせ、辺見先輩を見返した。 「何度も言いますが、私は新開くんと違ってはっきりと幽霊の顔を認識できません。ですが、この大学で文乃さんに初めて声を掛けられた時、心臓が止まる程驚きました。まるで、私が祓い続けたあの幽霊が、実体を手に入れて舞い戻って来たのかと、私にはそんな風に思えたんです」  辺見先輩は僕に声を掛けたあの時、確かにこう尋ねた。  ――― 私の後ろになにがいるか、わかる?  あれは、幽霊か人か、そういう単純な質問ではなかったのだ。  君の後ろにいつもいる幽霊と、とてもよく似た人間が現れた。君にはこれがどういう状況か理解できるか、そういう問い掛けでもあったのだ。  しかし酷似していたのは顔ではないという。顔の作りや表情といった具体的な理由よりもまず先に、直感したそうだ。文乃さんとその女の幽霊が同一の存在だと錯覚してしまう程、近しい雰囲気を発していたというのである。 「失礼を承知で言っています。幽霊と似ている、同じだなんて言われて気持ちが悪いのは百も承知で、でも、やはり、言わずにはいられませんでした」  椅子に腰かけて話をする辺見先輩の膝に、水滴がポツリと落ちたのが見えた。 「あなたと初めて出会った日、新開くんはびっくりするくらい、あなたに心を開いていました。ありえませんよ、だって彼、私以外に友達いないんですから。いっつも一人で本を読んでいます。私以外の先輩に声をかけてもらっても、返事はするけど会話が続かないんです。それなのに、自分の名前をフルで名乗るわ、真意の掴めないあなたからの依頼に即返するわで、これはもう、そういう縁だったんだなーって。彼の後ろにくっついている女の幽霊さんが導き合わせた、そういうご縁があったんだなーって、私は勝手にそう感心していたんです」  辺見先輩の目が、再び僕を見据えた。  と思う。  僕は彼女の話のかなり最初の段階から、顔を上げられずにいた。  羞恥心や、怖さや、驚きや、少しばかりの嬉しさや、そして情けなさ、色々な感情がないまぜになり、頭の整理がつかず、どんな表情を顔に浮かべてよいのか分からず、恐ろしい程の無表情が顔面に張り付いていたようにも思う。 「君から直接聞いたわけでもない話をする事を、どうか許してほしい」  と、辺見先輩は言った。「新開くん。……君のお母さんは、もう既に他界されたそうだね。間違っていたら怒ってくれてかまわないよ。だけどひょっとして君のお母さんは、この、西荻文乃さんに、とてもよく似ていらっしゃるんじゃあ、ないだろうか?」
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