3「特異体質」

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3「特異体質」

 文乃さんの使った比喩表現は、この時の僕にはどういう意味だか分からなかった。だが問題なのはそんな些末なことではない…。  机の上に置いた文乃さんのマグカップに、辺見先輩がそろそろと手を伸ばした。 「確認させてもらって、も?」  文乃さんは首を傾げただけで、言葉では是も否も答えなかった。  辺見先輩が右足を伸ばし、左ひざを曲げ、上半身を遠ざけたまま右手をカップに伸ばした。  またも、マグカップは逃げるように動いた。 「なー!」  辺見先輩は右手を引っ込め飛び上がって悲鳴を上げた。話に聞くのと実際にこの目で見るのとは臨場感がまるで違う。オカルト話では全くダメージを受けない辺見先輩が、声を上げて飛び上がるだけの衝撃は確かにある。 「マジックとか、手品とか、そういった事ですか?」  僕の問いに文乃さんは緩やかに首を振り、 「ちょっと、他の人の目があるのでこれ以上はやりませんが、例えばこのコップ程度の重さであれば、飛ばせます」  と答えた。  と、飛ばす?この人、自分を超能力者だって本気で言ってるのか?  僕と辺見先輩は顔を見合わせて、ゆっくりと着席した。 「…一旦この件は脇へ置くとして、先程の臭い案件とはどうつながりますか?」  辺見先輩は具合が悪そうな表情を浮かべながらも、文乃さんの話の続きを促した。 「実際に私が日常生活でこの力を使うことはありません。ですが私の体質が特異なのにはわけがあって、続きがあるんですね。分かりやすくいえば、私は霊体を見ることはできませんが、物理的に退ける事ができます」 「な」 「ん?」  僕と辺見先輩は同時に声を出し、同じ部分で首を捻った。  百歩譲って文乃さんの超能力が本物だと仮定しても、だからといって幽霊を退治できるとは限らないからだ。幽霊とはまさしく霊魂や霊体のことであり、この世に物質としての肉体をもたない存在である。だが文乃さんの力は先程この目で見た通り、この世に存在する物質に働きかけているのだ。 「物理的にっていうのは、どういう意味ですか?」  僕の聞いた声があまりに半信半疑だったためか、文乃さんは俯いて、 「信じてもらえなくても、仕方ありませんね」  と言った。 「いや、あの、そういう事ではなくて、あなたがどういう事象を起こせるのかが知りたいんです」  取り繕う僕に対して文乃さんは顔を伏せたまま、言った。 「例えば新開さんや辺見さんが幽霊だとして、私はこの場所からあなたたちお二人を、向こうの壁際まで弾き飛ばす事ができます」 「え!?」  なんだこの人。  辺見先輩は完全に引いてしまい、感情的に距離を置くような目で文乃さんを見ている。え、と呻いたきり何も言い返しはしなかったが、それは言い返すほどの興味を失ったという事だろう。  それ程までに、文乃さんの話す内容な荒唐無稽だった。  文学サークルに身を置く人間として、あらゆるジャンルの物語に興味を示す僕ら二人をもってしても、文乃さんの主張する能力はあまりにも稚拙な設定だと思えた。こんな話を聞いた後では、先程見たマジックの衝撃すら薄らいでしまう…。  だがそんな辺見先輩の隣で、僕はどこかで馬鹿に出来ない思いがむくむくと顔をもたげるのを自分の内側に感じていた。僕だって自分の体質を特異だと思っている。だからこそ様々なオカルト文献に目を通して来たし、少なくとも学内にある類書にはほぼ目を通して来た。霊体という存在を肯定するならば、目に見えない力の存在もあながち否定は出来ないのではないか。どこかで、これはあり得る話かもしれないぞと、そう思い始めた時だった。 「私が今日新開さんにお会いしに来た理由だけでも、説明させてください」  消え入りそうな声で文乃さんは言い、さしもの辺見先輩も慌てて、 「そうでしたそうでした、うちのに会いに来たんでしたっけね」  とまたもや僕の背中を叩いた。 「痛ったいな」 「新開さんには、私の目になってほしいんです」  ピンときた。  文乃さんが言うには、彼女は霊体を見ることが出来ない。しかし霊体を退ける事ができる。片や僕に超能力はないものの、霊感だけは人一倍強い。これはいわゆる、タッグ結成のお誘いであるか…。  …文乃さんと、この僕がか? 「やります!」  勢い込んで、辺見先輩が答えた。 「なんで先輩が答えるんだよ!」 「だって面白そうじゃない。夏は終わっちゃったけど、私たちオカルト研究会の夏はこれからなんじゃないのかい!?」 「僕ら、オカ研じゃありません」 「硬い事言うなよー!」 「だから肩を叩くのはやめてください!」  …面白くなんかありませんよ。  僕と辺見先輩は同時に後ろを振り返った。  確かに、真後ろから声が聞こえたのだ。  僕は恐る恐る文乃さんに視線を戻し、 「今のも、あなたが?」  と聞いた。 「…何がですか?」  文乃さんはきょとんとした顔をわずかに傾けてそう聞き返した。 「ちなみに」  と、背後を振り返ったまま辺見先輩が言った。 「うちのは文乃さんの目になって、どんなことをするんです?」 「はい」  文乃さんの説明は、大体次のようなものだった。  そのマンションに出没する『匂い』は時間帯も場所も一定ではなく、訪れても待ち構えても遭遇するとは限らない。運よくその場に居合わせる事が出来たとしても、その『匂い』の正体が分からず見る事も出来ない文乃さんには、力の使いようがないそうだ。 「私が訪れた時は、そういった匂いに遭遇することはありませんでした。気配も、影も、何も。ですが相談された方が仰るようにもしそれが『いる』のであれば、私がただ感じないだけであるならば、新開さんのような人に目になっていただくしかないと思って」 「なるほど」  僕が頷いて承諾しようとすると、 「ですが」  と文乃さんが先をとって言葉をつなげた。 「想像してみてください。気配もなく、それらしき影もなく、普段と何も変わらない生活空間です。例えばコップに注いで水を飲む時、例えば寝る間際に電灯を消した時、例えば新聞受けから朝刊を抜き取ったその瞬間、突然自分のすぐ側から強烈な異臭が立ち昇ります」  言われた通り想像した僕は、危うく息が止まりかけた。 「私はこの話を初めて聞いた時、本当言えば少しだけ後悔しました」  確かにそうだ。言われてみればその通りだ。 「それでも助けていただけるなら、どうぞ、よろしくお願いします」  文乃さんは机の上で深々と頭を下げた。  僕も、後悔し始めていた。  そいつの恐ろしさを知ったのはこの時が最初だった。  そいつが何モノであれ、一番怖いのは、前触れなく突然至近距離に現れる事だ。例え見えなくても、例え気配を感じなかったとしても、匂いがした瞬間そいつはそこにいるのだから。  
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