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午前の終わり、昼休憩に入る少し前、後方に書類を回すために振り返ったとき、行員用の出入口の扉が開いて行員が一人戻ってきた。
(…あっ……)
ーーー目が合った。
けれど、お互いに何も気付かなかったように行動する。
「坂崎さん、お疲れさまでーす」
出入口側のデスクの総務の女子行員が、戻ってきた行員に声をかける。
坂崎は何らかの領収書を渡しているようだ。
「お疲れさまです、腹へったー」
「ははは、今支店長が食堂いったとこですよ」
「…やめとこ」
女子行員が笑うのを尻目に得意先係のデスクへと足早に戻っていく。
これらを明里は無意識に視界の隅に入れ、手は業務を進める。
(…連絡がくる気がする)
窓口に近づいてくるお客様に笑顔で挨拶をし、カウンターにカルトンをのせながら明里は思った。
坂崎淳也は明里の恋人だ。
のはずだ。
いや、正確には違う。
でもそういう関係だ。
なぜ正確には違うかといえば、彼の左手の薬指には指輪がはまっている。
艶消しでマットな、少し特徴的なリングだ。
明里が2年目の春に、淳也は関西から転勤でこの店にやってきた。自己紹介では明里の2つ年上で、この店が2ヶ店目だという。
一目見たときから惹かれた。
話し方も、顔の造作も、体つきも。
そのあとで人となりを知り、もっと惹かれた。でもたいがいそういう男性は、すでにだれかのものだ。
後戻り出来るギリギリラインでずっと気持ちはくすぶり続けた。
「お昼入ります」
隣のテラーの行員に声をかけ、後方にあるドアから2階のロッカー室へ上がる。
薄暗い階段は、最近の自分の気持ちとリンクしているようで余計に気分が下がる。
明里は洗面所とトイレを横切って、小さなロッカー室へたどり着き、財布とスマホを取り出した。
(やっぱり来てる)
手早く通知をひらくと一言、
『今夜行ってもいい?』
ーーー断れるわけない。求められたら。
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