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第一章 猫王子
彼は、猫王子と呼ばれている。
ささやまふれあい商店街のマスコット的存在、フクイ電機の看板猫「ヒメ子」に見初められたことから、そのアダ名が商工会のおじさんおばさんたちに囁かれるようになった。
毎朝、スーツではないけれどさっぱりとした印象のジャケット姿に、すれ違ったら思わず振り返ってしまいそうな、彫刻のように端正な顔。髪と目の色素が薄く、まさに童話に出てくる王子様のような風貌だ。
商店街を通り抜け、おそらく仕事に向かうのだろう。夜は残業のためか、ほとんどの店が閉まるまでに姿を見せないことも多い。たまに休日の昼に商店街を歩いている時もある。朝はいつも池田ベーカリーでサンドッチを買っていく。
陽平はその池田ベーカリーで、毎朝四時から店長である父のパン作りを手伝った後、八時から店を開けてレジに立っていた。
その時間だと商店街の他の店はほとんど開いていないけれど、昔ながらの住宅街を挟んで新しいアパートやマンションも多く建つ土地柄、通勤前に朝食や昼食用のパンを買っていく人が多い。逃せない時間帯だ。その分閉店は早く、今時珍しく午後5時には店じまいしてしまう。だから、陽平が猫王子に会うのはもっぱら朝だった。
「いらっしゃい」
「おはようございます」
自分が客なのに、得意先に訪問する営業マンみたいに丁寧な挨拶で、彼は爽やかな笑顔を見せた。いつも開店してすぐ、一番乗りでやってくる。今日はほかの客もまだ見えず、店内は陽平と彼の二人きりだった。
「あ、サンドイッチの種類が増えてる」
「へへ、新商品きんぴらごぼうチキンサラダ、試してみる?」
「じゃあそれにしちゃおっかな」
サンドイッチといくつかのパンを選んで、会計する。店を出る時に、「いってらっしゃい」と声をかけたら、照れた笑顔で振り返って「いってきます」と答えた。と、その足にしゅるん、と茶トラの長いしっぽが絡む。
「わあ、お前いたの?」
猫のヒメ子に話しかけながら、彼女の王子様は、後手に戸を閉める。大きくて丸い顔がご愛嬌のヒメ子が、その足元で巧みに通行妨害しているのを、陽平はニヤニヤ笑いながら見送る。
「何一人でニヤけてるの?」
背後からの突然の声に陽平は驚いて「うわっ」と声を上げた。
「お兄ちゃん、クリームパン持ってっていい?」
妹の紗良が中学の制服で立っていた。
「弁当のサンドイッチは用意しといたぞ?」
「おやつ。お腹すくんだもん」
陽平が一つ袋に入れて渡してやると、きちんと「ありがとう」と言ったかと思う間に「いってきまーす」と出て行く。
「こら、店のドアから出るなって」
気立ての良い妹だけれど、ちょっと変わり者でぼんやりしているところが心配だ。最近少し食べすぎな気がするけれど、成長期で一番お腹のすく時期だし、元気な証拠かもしれない。
――しかし……。陽平は自分の顔に手を当てて考える。ニヤけていたのか、自分は。
妹にニヤけ顔を見られてしまった気恥ずかしさもあるけれど、それ以上に自分自身への戸惑いも感じていた。紗良は、「猫王子はお兄ちゃんのお気に入りだよね」と言う。そんな風に見えるのだろうか。
(……っていうより、あいつなんかツボなんだよな~!)
やたらイケメンすぎる容姿も、ただパン屋に入ってきただけで少女漫画のワンシーンのような爽やかさも、それでいて猫にモテているところも、すべてが面白くて、陽平のツボにハマるのだ。毎朝店に入ってくる瞬間からニヤニヤを抑えるのに必死だ。
(なんでこんなに猫王子にウケるのか、自分でもわからん……)
ドアベルが鳴って、新たな客が来店する。これからの時間が一番忙しくなる。陽平は考えを中断して仕事に集中した。
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