第一章 猫王子

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商店街のアイドルだったヒメ子が、ここしばらく姿を見せなくなっている。最近の商工会の話題は、もっぱらそのことばかりだ。冬の間は寒いから家の中にいるのだろうと思っていたけれど、四月に入って暖かくなってきてからも、出てきている様子がない。みんな最初のうちは、猫だしそんな気まぐれもあるだろうと思っていたが、しばらくすると本気で心配になってきた。猫王子も、最近は毎朝「あの子の姿が見えないね」と言ってくる。 しかし、その理由は突然判明した。ある夕方、陽平が店じまいをしていると、背後から少し細い声が呼んだ。 「陽平!」 振り返った陽平は、その声の主を見て言う。 「なんだ、アキラか」 まっすぐな黒髪の前下がりボブがクールな印象のその声の主は、同じ商店街の喫茶ノースリバーの一人娘、北川アキラだった。陽平とは同い年の幼馴染みだ。 「緊急商工会会議!」 「えっなんで?」 焦っているのか単語でしか喋らないアキラに陽平は当たり前の返事をする。 「ヒメ子が仔猫産んだ!」  フクイ電機のおじさんの話によると、ここ最近のヒメ子は家族からも姿を隠すかのように、キャットハウスの中からほとんど出てこようとしなかったという。気性も攻撃的になって、体調を見るためにハウスから出そうとしても、威嚇されて手が出せない状況だったそうだ。そんな中、不意をついたように自分から出てきたヒメ子のお腹がだいぶ大きくなっているのを見た時は、家族みんなかなり驚いたという。  それぞれが店を持っている商工会の人たちは、食べ物屋も多くてほとんど引き取れず、仔猫の里親は、商店街のいたるところに貼られたポスターで募集された。意外にも付近の住人から申し出が多く、仔猫の引き取り先は思ったよりも早く決まっていった。授乳の時期が終わる頃まではフクイ電機でヒメ子とともに面倒を見て、仔猫用フードに切り替わるころには里親の元にもらわれていった。  しかし、どうにも運のないやつというのは、猫の中にもいるようだ。一匹だけもらい手のつかない仔猫が残っていた。  閉店後、陽平はフクイ電機の店先に、ほかの商工会の人たちとともに集まっていた。彼らが囲んでいる足元には、無邪気に遊ぶ一匹だけ残った仔猫と、それを半ば乱暴に舐めるヒメ子がいた。 「うちはヒメ子だけで手いっぱいだし、誰かもらってくんないとどうしようもないなあ」  フクイのおじさんがぼやく。もともと電気製品を扱う店で毛の落ちる動物を飼うのはあまり望ましいことではない。ヒメ子を飼ったのは、知り合いが飼えなくなって、あやうく殺処分になるところを引き取った事情だったそうだ。 「でもうちは食べ物屋だし……」 「うちだってそうだよ」  商店街の人々が口々に言う。陽平も、心の中で「おじちゃん、ごめん」とつぶやきながら、誰かあてはないかと思考をめぐらせた。 「……あ!」  と、声を上げたのは、アキラだった。もともと目力の強い大きな目をまん丸に見開いて、陽平の背後の何かを指さした。 「猫王子!」  陽平がはっと振り返る。アキラの指の先には、夕日に照らされて色素の薄い髪がいっそうキラキラと光る、帰宅途中の彼の姿があった。 「……え、それ俺、ですか……」  呼ばれた猫王子その人は、突然のアキラの指差しに完全にびびっている。 「……そうだ! この人がいた!」  ノースリバーのおじさんも、合点がいったという風に声を上げた。 「お兄さん、ヒメ子のこと気に入ってたよね?」  たちまち取り囲まれて「な、なんの話ですか」と動揺している猫王子を少し不憫に思いつつ、陽平も期待していた。 「お願い! 人助け、いや猫助けだと思って!」 「ちょっと不細工かもしれないけどさ、よく見るとかわいいんだよ」  そう言って抱き上げた仔猫を押し付けられて、彼は面食らいながら腕の中のその子を見る。一匹だけ残ったその仔猫は、三毛ではあるけれど顔に黒が多く、色柄のバランスが絶妙に個性的な風貌だった。しかし、 「……かわいい……」  彼の一言に、にわかに歓声が上がった。しかし、次に続いた彼の言葉に、その歓声が一気にしぼんだ。 「でも俺、動物は飼えないんです」
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