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どうしてこういうことになったのか、自分自身、よくわからない。そう思いながら、陽平は、彼――猫王子こと、津島(つしま)玲音(れおん)のマンションへ向かっていた。
津島玲音が猫を飼えない理由は、生活時間にあった。残業の多い仕事をしていて、深夜にマンションに帰ることも珍しくないし、時には会社に泊まり込むこともある。毎日きちんと餌をやって、トイレの始末などの面倒を見てやることができない。特に気を付けて見てやる必要のある仔猫のうちは、なおさら難しい。
事情を聞いてみんなが諦めかけた時、自分でも思いもよらない言葉が陽平の口をついて出ていた。
「なら、俺が夜行こうか?」
考えてみると、津島の方もよくこんな申し出を受け入れたと思う。朝ちょっと顔を合わせるだけのパン屋の店員に、自分の部屋の合鍵を預けて毎晩通わせるなんて。けれど、そう思い直して「やっぱりなし」と言おうとした陽平に、津島は言ったのだ。
「いや……すごくいいよ、それ。そうしてくれたら、すごくうれしい」
晴れて津島家の子になった仔猫は、その場で津島によって、即決で「マイ」と名付けられた。理由は今はまっているドラマの主演女優の名前からだとか。意外と適当な性格なのかもしれない。
「マイ~、ちょっとは慣れたか?」
マイは毛布を敷いたケージの中にいた。時刻は夕方6時。お腹がすいたようで、みゃーみゃーと叫んでいる。
オートロック付きマンションの高層階、1LDK。一人暮らしには十分かつちょうどよい広さの部屋だ。津島が仔猫を連れて帰るその日に一度一緒に上がらせてもらったから、ある程度物の配置はわかっていた。餌の置き場所や与え方については、事前に津島が丁寧なお礼と一緒にメールで送ってくれていた。ペットショップで一式買いそろえる時、店員にいろいろと聞いたそうだ。
「お前のご主人、マメだな。いい暮らしできそうじゃん」
メールの通りに餌をやりながら、夢中で食べているマイにそう語りかけると、玄関でがちゃ、と音がした。
どう考えても鍵を開ける音のように聞こえたけれど、まさか津島が帰ってきたのだろうか。ほかの誰かだったら怖いけれど。こわばりながら耳を澄ませていたら、聞き覚えのある声が廊下の向こうから響いた。
「あ、よかったー。まだいてくれた」
やはり津島だった。リビングの扉からひょこっと姿を現す。声で津島だとわかっていたはずなのに、なぜか心臓がはねた。
「びっくりした! 早いじゃん」
「やっぱり来てもらう最初の日だから、どうしても顔合わせておきたくて。上司に話したら早めに切り上げさせてくれたんだ」
「え、」
自分のために? と思うと少しうれしい反面、心配になる。
「それ仕事、大丈夫なのか?」
津島は少し相貌を崩して答える。
「社長と俺の二人だけの会社なんだよ。だから忙しいときはハンパなく忙しいんだけど、わりとフレキシブルに対応してもらえるんだ」
「へえ……」
陽平にはぴんとこない話だった。調理師専門学校を出てから、修行のためにほかのパン屋に数年働きに出ていたことはあるけれど、基本はパン屋以外で働いたことはなく、一般的な会社というもの自体よくわからない。
「夕飯は、まだ?」
「ん? 今やってるぜ」
マイを指し示すと、津島はまた笑って、しゃがんでいる陽平の前に自分もしゃがみこんだ。目線の高さが合う。
「ちがう、池田さんの。まだだったら一緒にどうかなと思って」
陽平はその時、津島の瞳の色が、不思議な色をしていることに気付いた。灰色、いや、銀色だろうか。でも角度を変えると茶色にも見える。
津島ははじめから2人分の食事を買ってきてくれていた。「出来合いので悪いけど」と言うけれど、惣菜を数点盛り合わせたそれは、なかなか小洒落たディナーになった。
「ごめん、明日休みだったらもうちょっとゆっくりしてもらえたんだけど」
「いや、全然。俺こそゴチになっちゃって」
「池田さんのところは土曜日定休だよね」
「うん、月曜と土曜。」
いまどき週2日定休日がある店も珍しいけれど、池田ベーカリーはバイトも雇わず完全家族経営なので、致し方ない。
「津島さんは、土日休み?」
「基本はね。お客さんは暦通りが多いんだけど、仕事が終わらなかったら休日返上になることもあるかな」
「大変なんだな」
「パン屋さんこそ大変でしょ? 朝早いんだよね」
「まあ、朝はいつも四時からだけど、自宅だし」
「えー! 四時! 俺四時に寝る時あるよ」
津島の仕事は個人の広告デザイン事務所で、デザイナーである社長の補佐として事務方を一手に引き受けているそうだ。いわばフリーデザイナーのマネージャーみたいなものだという。朝が早く、仕事終わりも早い陽平とは真逆の、夜遅いことが常の仕事。こんなに自分と環境の違う人間がいることに、改めて陽平は気が遠くなるようだった。商店街にいると、似た環境の人たちの狭い世界で、すべてが完結してしまうようなところがある。
もっといろんなことを話してみたかったけれど、次の日も朝の早い陽平には、あまり時間がなかった。
「ごちそうさま、メシ代いくら?」
「いいよ、お礼だと思って。それより土曜休みなら、金曜の夜はゆっくりしてってもらえるかな?」
立ち上がって玄関に向かおうとしていた陽平は、振り返って津島の顔を見る。
「うん……、津島さんがいいなら」
「もちろん! もっと話したい!」
津島も同じ思いでいてくれたと思うと、陽平の胸に、あたたかい感覚がじわっと広がる。
「それと……」
津島の顔が、少し赤らんだように見えた。
「俺、あんまり苗字で呼ばれるの慣れてないからさ、玲音って呼んでくれない?」
「れ、おん……」
外国語のような響きの名前。やはり外国のルーツが入っているんだろうか。
「俺も、陽平って呼んで」
「よーへい、くん」
「陽平でいいよ」
「……陽平」
こんなふうに、新しい友達ができて呼び名を決め合うのは学生時代以来で、なんだか照れる。へへ、と思わず笑うと、玲音も同じように照れた微笑みを返した。
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