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片手にはひき肉とキャベツ、ほかにいくつかの野菜とチーズの入った買い物袋を、もう片方の手には池田ベーカリーのフランスパンを提げて、陽平は玲音のマンションのエレベーターに乗っていた。
玲音の家で料理を作るのは初めてだけれど、陽平が自分から申し出た。調理師免許も持っているし、もともと料理好きだけれど、家の食事は母が担当で、パン以外の料理を作る機会が最近めっきり減っていた。せっかく一緒に食べるなら、作りたい。
うきうきしながらエレベーターのドアの上の、光る数字が移り変わっていくのを見つめる。もう一人同じ箱に乗っている五十手前くらいに見えるスーツの男性は、陽平が十五階のボタンを押す前にそれを押していたから、玲音と同じ階の住人らしい。
初めての金曜日、一緒に夕飯を食べてしゃべっていたら、酒が入って眠くなりそのまま泊まってしまった。それ以来、金曜の夜は泊まらせてもらうのが常になっている。あの日玲音が言ったことを思い出して、陽平はまた吹き出しそうになる。
「ビールは……あ、陽平、成人してる?」
よく童顔だとは言われるけれど、そこまでコドモに見られていたのには、怒りもどこかへ飛んで、笑ってしまった。もう二十八歳のアラサーだと告げると、同い年だと言って驚いていた。
エレベーターが到着すると、パネル前にいる男性は「開」を押して先を促してくれた。玲音の部屋の前に着くと、さっきの人が一つ隣の部屋の前で立ち止まるのが目に入る。隣の部屋の人だったのかと、鍵を取り出しながら思っていると
「あのー……」
と、切り出したのは、相手の方だった。しかし、なぜか目線はこちらを向いていない。
「そちらの部屋の方とは、どういった関係の方なんでしょうか」
なんとなく顔や姿の特徴が覚えにくいその人は、自分の手元を見つめたまましゃべる。
「マンションで、少し噂になっているようで……。うちは子どももいるので、妻が気にしていまして」
陽平は首を傾げた。
「なんか、音とかうるさかったりしました?」
すると男性は、ぎょっとしたような表情になった。
「何か聞こえるとかいうことはありませんけど! いや、何でもないです、結構です」
そう言って慌てて部屋に入ってしまった。
――それがどういう意味だったのか、ようやく思い至ったのは、ロールキャベツがもう出来上がる頃だった。意味がわかった瞬間に赤面する。と同時に、
「……だとしても、あの態度はねーんじゃねえか?」
じわじわと、嫌な気持ちがこみ上げてきた。
陽平は、高校時代のある友人のことを思い出していた。陽平と彼はいつもセットで「かわいこちゃん」とか「オカマちゃん」とか言われてからかわれていた。陽平は小柄で童顔なだけで、中身は意外に粗野なタイプだけれど、彼は見た目もかわいらしいし、内面も優しく繊細で、きれいなものや小さい可愛いものが好きだった。クラスメイトたちにからかわれると、陽平が先に立っていつも「ちげーよ!」と怒った。大人しい彼のためにも、二人分怒っているつもりだった。
しかし、彼の気持ちは違っていた。ある日、泣きながら「僕は本当にオカマなんだ」「男が好きなヘンタイなんだ」と告げられた。
かばっていたつもりで友人を傷つけていたという事実は、衝撃的に胸に刺さった。それと同時に、勇気を持って話してくれた彼を、純粋にすごいと思った。
彼とは今でも連絡を取り合っている友達だ。今はパートナーの転勤について行って、他県に引っ越したと聞いている。
考えにふけりながら鍋を見ているところに、玄関の開く音が聞こえた。
「ただいまー」
玲音の声だ。陽平が「おかえり」というより先に、
「いい匂いがする!」
と叫ぶ声が廊下から聞こえてきて、陽平は苦笑した。その声に仔猫のマイも「みゃーん」と鳴き返す。自分も会話に混ぜろと言っているようで陽平はまた笑う。
「何笑ってるの?」
と言いながら玲音が部屋に入ってきた。ジャケットを脱いでソファに無造作にかけた後、陽平が作っているものをのぞき込みに来る。
「親子で会話してんなーと思って」
「親子って俺とマイ?」
「そう」
「あはは、じゃあ俺がお父さんで陽平がお母さんね」
心臓がぎくっと跳ねた。ただの冗談だと受け流せばいいような言葉だと思うけれど、さっき隣部屋の人の言っていたことがとっさに浮かんできてしまった。
「……陽平?」
「いや、なんでも……」
打ち消しかけて、陽平は、はたと気付く。自分のことで玲音が中傷の噂を流されているのなら、それは本人に伝えておく必要があるんじゃないか。
「……あー、やっぱなんでもなくないかも。食事できたら話すな」
「うん?」
玲音はハテナの浮かんだ笑顔で頷いた。
陽平の作ったロールキャベツとフランスパンとワインが並ぶテーブルを挟んで、二人は向かい合う。
「まあ俺は、陽平みたいな美少年系とのスキャンダル流してもらえるなら、ありがとうございますって感じだけどね」
一通り話した後に出た玲音の言葉に、陽平は吹き出しそうになった。
「美少年ってガラじゃねえよ」
「だから、美少年系。エセ美少年だから」
「上げて落とすな」
二人で大笑いしているとまたマイが鳴き始める。かまってほしい盛りなんだろう。
「でもさ、なんかここのマンションの人間関係ってそんな感じなの? 商店街もそれなりにめんどくさいとこはあるけどさ……こういうのは、なんか……」
言葉に詰まる陽平の握りしめる手の上に、玲音の手が重ねられた。
「大丈夫だよ、ありがとう」
なぜか陽平は、切ないようなもどかしいような気持ちになる。
「明日さ、うちにメシ食いにこない?」
突然そんな言葉が口をついて出た。
「いいの!?」
どんな反応をするかと思ったら、途端にぱっと明るい表情になって、なんだか可愛いな、と思ってしまう。
「うちの家族もマイに会いたがってるし」
「えー! どうしよう、すごくうれしい」
「うちに連絡しとくな」
両親たちも妹も、話題の猫王子と仔猫が来ると言ったら喜ぶのは目に見えている。陽平はコートのポケットの携帯を取りに行った。
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