痙攣

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痙攣

2016年、6月23日 私は、仕事を終え帰宅の途についていた。 家には愛する妻が私の帰宅を待っている。 結婚してまだ半年にもかかわらず、恥ずかしながら、何度か叱られた事もあるし、泣かせた事も傷つけた事もある。 それでも離婚しなかった妻に感謝しかない。 家までは車であと5分という所で、急に私の携帯が鳴り響く。 車を停め画面を見ると妻からだった。 私はてっきり買い物でも頼まれるのだろうと思った。 電話を取り 『もしもし?どした?』 と言った。 『ごめんけど救急車呼んで。全身が痙攣した。結構やばいかも』 妻が言ってる意味がよく分からなかった。 確かに結婚前から左足が痙攣のような、指先だけピクピク動くことがあった。 だがそれは、1分程度で止まり、何事もなかったように妻は歩けていた。 私はそれを単なる疲れだろうと思っていた。 妻は結婚資金を貯める時も、朝から夜遅くまで仕事をしていた。 睡眠時間は3~4時間程度で週5~6日。 それを弱音を吐かず頑張り、結婚資金を貯めてくれた。 もちろん、私も仕事をしていたが、残業も少なく手取りは20万そこそこ。 2人で貯めたと妻は言ってくれるが、私の少ない給料で何か役に立ったのか、いまだに疑問だ。 その仕事をし過ぎたせいで、妻の足に痙攣があるのだと思っていた私は、全身に痙攣が起こったと聞いて、すぐに理解はできなかった。 だが、妻の声や様子がいつもと違う事だけは、即座に分かった。 『分かった。俺もあと5分で着くし救急車が来るまで、大丈夫?』 『うん、多分』 すぐに電話を切り、救急車を要請した。 私は意外と冷静だった。 取り乱しても仕方ないし、そもそも妻の様子を見てないので事態の把握が出来ていなかったのかも知れない。 110番と119番を間違えないように電話をかける。 手は震えていない、冷静を装っているが、思いのほか心臓の音は激しくしっかりと私の耳に届いていた。 『救急ですか?消防ですか?』 『救急です。妻が全身痙攣をおこしたみたいで…』 『意識はありますか?ケガはありませんか?』 『分かりません。自分もまだ家に帰りついてないので。妻が救急車を呼んでくれと自分に連絡してきたので、意識はありますね』 『分かりました。住所をおねがいします』 私は住所を告げ、電話を切ると車を走らせ家へと急いだ。 家に着くと同時に救急車が到着した。 救急隊を手招きして呼び、私は家の鍵を開けた。 玄関を開けると目の前には対面キッチンがある、ごく普通の賃貸マンション。 その対面キッチンの床に妻が横たわっていた。 妻の意識は朦朧としている。 救急隊は『土足で失礼します』と言い、妻に駆け寄った。 確かに靴を脱ぐ僅かな時間が命取りになる事もあるだろう、だが冷静な私はそれに少しだけイラっとしたのを覚えている。 救急車に妻が運びこまれ、何やら色々と検査をされているようだった。 その間、搬送先の病院を探している隊員から少し離れて私はタバコを吸っていた。 少しでも冷静にいる為、今の状況を把握する為、入院になった時の事態の為、色々考える時間が欲しかった。 その時のタバコ1本が、やけに長く感じた。 搬送先の病院が決まり、私は、もし妻が帰れる時の為、入院する事になって荷物をまとめる時の為、救急車には乗らず自分の車で病院へ向かう事を救急隊に伝えた。 きっとその時の妻は、1人で救急車に乗り、これからの事を考えると物凄く不安だったと思う。 本来ならば、一緒に救急車に乗り、手でも繋いで励ますべきなのだろう。 だが、それが出来なかった。 多少なりとも私にも恐怖はあったし、何と言葉をかけて良いのか分からなかった。 病院に着くと、救急搬送センターが目に入ったのでそこへ向かう。 係りの人に名前を告げると、待合ロビーで待つように促された。 30分程経ち、まだ妻の様子が分からない私は会社の上司である班長に連絡をした。 入院になるかもしれない事、仮に今日帰れても明日は付き添ってやりたい事を伝え、明日の仕事を休みに変更してもらった。 これで気兼ねなく妻を待つ事が出来る。 1時間近く経ち、『ご家族の方は中へお入り下さい』と呼ばれたので、私は救急搬送センターの中へ向かった。 妻の意識はそこそこ戻っており、一緒に医者からの説明を聞く事にした。 医者は痙攣が脳腫瘍によるものだと説明した。 MRIの画像を見ると、確かに薄く影のようなものがあった。 正直、癌はもっと高齢になってからだとか、遺伝的なものだとか、ずっと他人事だった。 親戚の叔父でさえ、会社を退職した後に癌と分かったくらいだ。 まさか自分の妻がこんなに若くして癌になるとは思ってもみなかった。 だが、私も妻も、割と冷静だった。 私は「まだ小さいらしいし、手術すれば問題ないんだろ?」と思っていた部分もあり、妻は左足の痙攣が脳からのものじゃないかと、薄々気付いていたらしい。 脳腫瘍は右脳の前頭葉の傍にあり、運動野に絡みついているという事だった。 右脳にある為、左足に痙攣が起きていたのだという。 そのまま入院をし、手術して摘出するべきとの判断だった。 私は入院受付をして、妻に明日また来ると告げて病院の駐車場に向かった。 車に乗り、妻の実家へ連絡をした。 時刻は夜の8時半を回った頃だった。 今日の夕方、全身痙攣が起こり救急車で運ばれた事、原因が脳腫瘍だった事、入院して手術をする事になった事、全てを伝えた。 帰り着くと、私は急に寂しくなった。 本当に手術でよくなるのか、後遺症はないのか、余命はどれくらいなのか、結婚してまだ半年しか経ってない、子供もいない、まだ30歳にもなっていない妻がなぜ脳腫瘍になったのか、今頃妻は1人で不安で辛い夜を過ごしているのではないか。 考えれば考えるほど、寂しく部屋が暗く感じた。
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