王都ルベルターザの斜陽

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       ―Ⅵ―    この朝、ナラカは鳥の声で目を覚ました。 まだ早い時間で、陽は顔を出しておらず、やや暗さの残る空だった。 すっきりした目覚めだったため、そのまま起きて着替え、なんとなく部屋を出た。 特に興味はなかったのだが、玄関広間から見えるところに、中庭があったことを思い出して、階下に向かう。 確か、談話室から、その庭に出られたはずだ。 この時間の廊下に、ほかに人影はなく、1階の廊下を歩いていると、片側が硝子張りになっているところに差し掛かった。 昨日初めて見た、濃い緑の葉と、それより少し薄い色の幹を持つ木が、一列に並び、奥行きを狭くする白壁との対比で、色彩が鮮やかに映る。 緑の列が終わるところが、この廊下の突き当たりで、談話室がある。 なかには、セニが1人でいて、情報伝達紙を読んでいた。 「セニ」 早朝に人がいたことに驚いたナラカが、思わず声を上げると、目を上げて、おはようと微笑んだ。 「よく眠れたか?」 「え?ええ、まあ、よく眠ったと思うわ」 そんなことを聞かれたのは初めてなので、変な質問だと思った。 セニはナラカの戸惑いを察したようで、少し困ったように笑う。 セニにとっては、緊張状態にあるだろう人に多く掛けられる言葉だが、ナラカは、そのような気遣いに触れることが、これまでなかったのだろう。 そこまで親しめる者がいなかったのか、単に機会がなかっただけなのか。 どちらにせよ、眠れないという事態に思い当たることがないのなら、少なくとも今は、睡眠不足による体調不良はない。 「座るか?」 セニが向かい合う長椅子を示すと、ナラカは一瞬、躊躇(ためら)ってから頷き、座った。 「?どこかに行くところか?ああ、もしかして中庭?」 「ええ。でも、いいわ。それよりそれ、情報伝達紙よね。前に一度だけ、すごく古いのを見たことがあるわ」 セニは、ああ、と笑いながら、ナラカに情報伝達紙を渡した。 「オルレアノ国の者は、他国のことに無関心だからな。全国版の情報伝達紙を求める者は少ない。それに、このように情報を紙で伝えるという手法が、国内で広まらなかった」 「ほかの国では違うの?」 「ああ。全国版の情報伝達紙は、たいていの宿に置いてあるし、アルシュファイドでは、区ごとの情報を伝えるものや、経済…物や(かね)の流れや、それに密接に関わる世の中の動きなどに注目する記事を集めたものとかがある」 ナラカは情報伝達紙を読んでみた。 所々、判らない文字がある。 「……。少し、読みにくいわ。判らない文字が多いみたい」 この大陸には、0から9の組み合わせから成る数字と、文字があり、文字はさらに、表意文字である真名(まな)と、表音文字である仮名(かな)に分かれ、仮名(かな)はさらに平仮名と片仮名に分かれる。 真名(まな)の数は膨大で、ナラカは、王城にいた10歳までに、いくらか覚えたが、マディーナ族のムラに厄介になってからずっと、新たな真名(まな)を学ぶ機会はなかった。 「情報伝達紙は、普段使われない真名(まな)も使うからな。俺も時々、知らない文字を見るよ。でも、君はもう少し、学んだ方がいいのかもな」 「困る…かしら」 「君がどの程度読めているか判らないが、文書の()り取りは、これから増えると思う。たぶん困ることになるんだろう」 「それも…アルシュファイドで学べるの?」 「ああ、もちろん」 ナラカは頷いて、やはり自分には、アルシュファイド王国が…その国の王が与えてくれる、学びの機会が必要なのだと、強く胸に(とど)めた。 今回のところは、判らない真名(まな)は飛ばしながら読み、気になる所だけ、セニに読み方と意味を聞いた。 そうして情報伝達紙を読む努力をしていると、中庭から数人入ってきて、顔を上げて見ると、ヤトと3人の騎士たちと、なんとなく見覚えのある、旅の一団の護衛たちだった。 「ナラカ。起きてきたのか」 ヤトが近付きながら言い、騎士たちやそのほかの護衛たちが、朝の挨拶をした。 ナラカは取り敢えず挨拶を返してから、ヤトを見た。 「うん。今日は少し早く起きたから。何か問題?」 幼い頃からの付き合いなので、わずかな表情の違いにも気付く。 時々、その意味は判らないけれど。 「いや、……。安全な宿ばかりではないだろうから、あまり出歩くな」 「ああ、そうね。そうするわ」 セニが口を挟んだ。 「こことシャランナの宿の安全は保証するぞ。と言うか、そのほかの宿泊場所も、屋内を歩く程度で、危険はないぞ?」 ヤトは視線を揺らして、下に落とした。 「ああ…、すまない。2人だけでムラを離れたことがなかったから。心配なんだ」 セニは笑って、手の甲で、ヤトの肩を軽く叩いた。 「まあ、あまり気を張るな。アルシュファイドに行ったら、平和だし、敷地内は特に安全だ。役目もあるだろうし、それとは別に心配もあるかもしれないが、自分の意識も休めてやれよ」 「あ…、ああ。ありがとう…」 キエラが笑って、それだけじゃないだろと言った。 「ん?なんのことだ?」 「さてねえ、ほら、食事の時間だ」 首を傾げるセニを、手を振って促し、一同は揃って食堂へと向かった。 しっかりした内容の朝食を終えると、茶を飲みながらセニが言った。 「謁見は、待ち時間が長い。しばらく城内で3人だけ…と荷持ちだけになる。離れないようにしよう」 ナラカは頷いて、長いってどれぐらい、と聞いた。 「まあ、朝のうちには謁見の()に入れると思うんだが。1時間から2時間は覚悟してくれ。8時から受付をして、品物に不審な点がないか調べられるのに1時間はしないと思うが、そのくらいとして、そのあと、待合室でたぶん2時間ぐらい待つ。ひょっとしたらもう少し。3時間にはならないと思う」 「分かったわ」 「話の方は俺に任せてくれ。あと、君の名は、ナラカ・ルトワとする。俺の父の弟の娘だ。いいか?」 「ええ」 「まずないと思うが、育ちなど聞かれたら、正直に遊牧する部族のムラで育ったと言ってくれ。父母はアルシュファイドの民だが、そちらに預けられたと。詳しく聞かれたら、あとは俺の方でなんとかするから、話を合わせろ」 「分かった」 それからさらに、合わせるべき話の詳細を確認して、一同は宛てがわれた部屋に戻った。 ナラカが身支度を済ませて、部屋を出ると、すぐ外にヤトがいた。 「ヤト」 「大丈夫か」 深い緑の瞳が、ナラカの赤みを帯びた茶色の瞳を窺う。 ナラカはまっすぐヤトを見つめて、言った。 「もちろんよ。行きましょう」 先に進むと、付いてくる。 そのまま階下におりて、玄関広間から外に出ると、馬車が用意されていた。 セニに促されて、客車に乗り込む。 今日は、ヤトも客車で、隣に座る。 馬車が動き出して、王城まで、少しの距離を移動する。 何気なく窓の外を見るナラカの目に映るのは、動き出す王都の、朝の風景。 どこへ向かうのか知らないが、人々のその足取りには、目的地がある者特有の確かさがあった。 馬車はすぐに、王城前広場に出て、城の南側にそびえる大きな城門を通り過ぎると、高い城壁に沿って進み、城の東側の門で止められた。 城の衛兵がナラカたちの乗る客車の扉を開けて、ひとりひとりの素性を確かめ、満足して扉を閉める。 あっさりした確認だったのは、事前に入城を申し込んでいたためらしい。 ナラカたちの乗った馬車は、ゆっくりと城の敷地内に入り、やがて止まった。 「それじゃ、出よう」 セニが言って、まずはヤトが降り、キエラが降り、セニが降りてナラカの番。 ヤトの手を借りて馬車を降りると、すぐ前に城の入り口が()いていた。 その先には暗く続く廊下があり、入り口脇には、持ち物を調べられている人々が並んでいた。 「じゃあ、ここで」 「はい、セニ様。お待ちしております。ナラカ様、作法通りになさいますように」 キエラが、教師らしい注意をする。 ナラカは、事前に教わった作法を思い出し、素直に深く頷いた。 「そうします」 キエラは、彼女らしい笑顔で頷き返した。 それは、励ますような、控えめさを取り払った、とりわけ明るい笑顔だった。 ナラカは、心を軽くして振り返り、大きな城を仰ぎ見た。 帰ってきたという感覚はない。 むしろこれから、戦いに赴く気構えが組み上げられた。 「ナラカ、並ぶぞ」 「ええ、セニ」 応えて、ナラカはセニのあとに続いた。 持ち物検査の列は、そう長くはないが、進みが遅い。 ようやく順番が回ってきて、セニとヤトはここで、持っていた剣を預けた。 ナラカは、セニが剣を持っていたことに少し驚く。 普通の剣より短いものだったけれど、飾りなどではないことを示す鞘に、収められていた。 「なかに入って、右手の待合室で待て」 衛兵に声を掛けられて意識を戻す。 この入り口前に到着してから、時間半ば以上も過ぎて、やっと建物内に入ると、程近い場所にある部屋に入った。 なかには、数組の、商人風の男たちがいる。 だが、セニのように、荷持ちを連れるほど大きな品を抱える者はいないようだ。 「ナラカ、座ろう」 部屋にはいくつか、低めの机や椅子があり、2人組用の一揃(ひとそろ)いが多いなか、多人数用の一揃(ひとそろ)いとなっている机と椅子が、3組あった。 セニはそのうちのひとつ、明るい窓際側に向かい、1人掛けの椅子に座ると、同じひとつの机を囲むすぐ横の長椅子を、ナラカに示した。 気の利く荷持ちの男が、水を持ってまいります、と、一声(ひとこえ)掛けて、部屋の端に用意してある水差しと、杯を人数分持ってきた。 ナラカは、示された大きな長椅子に向かうと、セニ寄りの端に腰を落ち着け、背もたれに体を預けた。 水を()がれた杯を手に持って、ひと口飲むと、ほっと息をつく。 「目を閉じて休んでいるといい」 セニは言ったが、そんな気には、なれなかった。 首を横に振って、いいえ、と呟く。 「それより、何か話して」 セニはやさしく笑って、そうかと言った。 「何かか…。そうだな、王城書庫に携わる者として、少し禁書庫のことでも話そうか」 「きんしょこ?」 「ああ。アルシュファイドの王城には、持ち出し禁止の書物を集めた(くら)がある。ほかの国で、禁書と言うと、様々な理由で禁じられた書物のことなんだが、アルシュファイドで言う禁書とは、持ち出し禁止という意味だ」 「禁じられた書物…と、持ち出し禁止。何を…何が?禁じられているの?持ち出しって、どこから?」 「持ち出しは、書物を保管してある書架の部屋と、閲覧場所まで含めてを書庫とし、そこから書物を携帯して出ることで、これを禁じている。理由は、それが国内外の機密に関わるものであったり、希少本なので、閲覧を制限したり、破損や汚損や紛失を防ぐためだ」 セニはそう言うと、手に持っていた杯を口元に寄せて、少しだけ口を湿らせた。 「禁じられた書物というのは、過去から現在に至るまで、各国の事情により、その存在を否定された書物で、読むことはもちろん、所持や、ほかの国から持ち込むこと、そして、ひとつの書物として作成し、世間に出すことを禁じられた書物だ」 「各国の事情?」 「ああ。その書物が民衆の目に触れることで、為政者にとって都合の悪いことが起こると予測され、または信じられ、そのように定められた」 ナラカは首を傾ける。 「どう都合が悪いの?」 「書物は、知識を与える。その書物の内容を知ることで、民衆は、物事に対して、自力での理解を覚え、それぞれの見解を持ち、考える力を増大させる。だが、為政者にとっては、民衆が無知であれば、(ぎょ)しやすいし、騙しやすい」 ナラカは、目を大きくして、それから、表情を歪ませた。 「そんなの」 「うん。卑怯だな。だが、そればかりじゃあない。その知識を得ることで、危険な考えを持ち、多くの者を傷付けようとする者が現れることを防ぐという考えもある。例えば、人の命を奪う方法を記す書物」 「そんなものがあるの」 「書物とは、捉え方次第なんだ。人が、どのような働き掛けをすれば死に至るのかを記された書物を読んで、誰かは、命を奪うことを考えるかもしれないが、ほかの誰かは、その知識から、人の命を救う方法を、導き出すかもしれない」 ナラカは眉根を寄せて、難しい問題に取り組むように沈黙した。 だが、すぐには答えを出せないようで、首を傾けてセニを見た。 「その見極めは、どうやってするの」 「見極めを任された者の、考え次第となる。アルシュファイドでは、似たようなことで、閲覧制限を掛けている書物がある。その選定は、複数の有識者…学問があり、物事に対する正しい判断や考えができると信頼されている者たちに、話し合ってもらって、(おこな)っている」 セニは息を継いで続けた。 「複数の者に頼むのは、公平で正しいと信じられる結論を導くためだ。誰か1人の偏見や思惑で、適正を欠き、不利益を(こうむ)る者を作らないためだ」 「……。アルシュファイドでは?ほかの国では違うの?」 「似たようなことをする国もある。ただ、有識者とされる者の基準が低すぎたり、人数が少なすぎたり、利害の共通する者だけで構成されたりして、なかなかうまくはいかないようだ。それと、為政者の圧力によって、結論を曲げられたこともある」 「そう……。ほかの手法はある?」 「手法というか、そもそも禁書を作らず、閲覧制限も設けない国がある。学究の国クラールがそうだ」 「それは…大丈夫なの?」 「さてな。我々は他国のことにまで口出しできないし、学究の国という性質上、それがあるべき姿なのかとも思う」 「国の、性質…」 「そう。さらに、書物を作らないという選択もできる。オルレアノ国の部族の者は、多くのことを、語り継ぐという手法で残しているだろう」 「ああ…。そうか、書物とは、形を残して、伝えるものなのね…」 「そうだ。形があるから、伝えられる者の幅が広がっている。それが良いことなのか悪いことなのか、結論を出せなくても、我々、書物に携わる者たちは、考えていかなければならないんだろう。そう、俺は思っている」 「………」 ナラカは、ふとセニを見つめた。 そういえば、彼の本来の仕事は、こんなことではないはずだ。 「その…、収集官、だった?そちらの仕事は、しなくていいの?」 セニは微笑んで、ナラカを見た。 「多少、寄り道をしたって構わない。それに、君に付き合ってここまで来たこと、することは、いずれ、何かの役に立つだろう。人の行動とは、常に何事かをもたらすものだ」 ナラカには、理解しにくい考えだった。 ただ、セニは、自分の考えと意思を持って動いているのだと思った。 自国の王の命令だから、断れないのではなく。 ナラカのわがままに振り回されているのでもなく。 そこには、彼自身の都合が、あるのだ。 「……。収集官って、何をするの?」 聞くと、セニは、ん?と少し首を傾けた。 どうしてナラカが、そんなことに興味を持ったのかと思ったのだ。 だが、単なる話の流れというものだろうと、あまり気にせず答えた。 「収集官は、書物、または書物となるものを集める。すでに存在するが、アルシュファイドにはない書物、または、書物とはなっていないが、今後書物として残せるものを収集する」 「書物として残せるもの?」 「ああ。それこそ、オルレアノ国の部族が語り継ぐ口承であるとか、彼らの生活そのものも、書物にしようと思えばできる。いつ、どのようにバラガを移動させるのかとか、移動する理由とかな」 ナラカは、ぱちぱちと(まばた)きした。 「え。そんなことを書物にしてどうするの?」 「(あらかじ)め、用途を決めて収集し、書物を作るわけじゃない。ただそこにある物事を書き留め、残そうとしている。いずれ生じる、善意に役立てばいいとは思うが、先に言ったように、書物とは、捉え方次第だからな。作ったあと、誰がどうするのか判らないし、その結果、何が起こるかは判らない」 「賭け、ということ?」 「まあ、そうだな。だからこそ、今、閲覧制限を設けるなど、悪いことに繋がらないように、仕組みを作って実行している」 ナラカは、息を吐いた。 なんとなく、どういうことか、理解できたと思った。 書物を作るのも、国を動かすのも同じなのだ。 良いことに使われるよう、良い国になるよう、行動を起こし、その結果を予測し、悪いことが起こらないように、形を組み立てていく。 そしてそれをするには、そこにあるものを知り、それがもたらすことを知り、それに対してできることを、知らなければならない。 ナラカは、何をするにせよ、自分にはまず、知識が足りないのだと感じた。 「私、知りたい…!色々なこと。知っておくべきこと。それが何かは、判らないけど。このままでは、いられない…!」 セニは、微笑んで頷いた。 今初めて、ナラカは動き出したのだ。 この王都に来ることになった、叔父の顔を見たい、見なければならないという、理由の判らない衝動や、焦慮(しょうりょ)とは違う。 自分の意思が、動き出したのだ。 それは彼女のこれからを決めるための、一歩。 明日(あす)を生きるために、確かに踏み出した、一歩だった。
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