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―Ⅷ―
いつの間にか、アルシュファイド王国での生活を考えることに夢中で、今がどんな状況であるか忘れていたらしい。
不意に近付いてきた案内の男が、順番が来たと知らせたとき、ナラカは驚いて、わずかに身を震わせた。
「ありがとうございます。皆、行くぞ」
セニの落ち着いた声が、ナラカを宥めた。
一同は案内の男のあとに続いて、待合室を出ると、長い廊下を進んで、ひとつの大きな扉の前に立った。
案内の男が声を上げて入室の許可を求め、認められて両側に開かれた扉の中に入った。
部屋の奥には、数段高い床があり、背もたれの高い、1人掛けの金の椅子の中央に赤い布を張った玉座が置かれ、壮年…40代前半の立派な体格の男が座っていた。
玉座から少し離れ、やや奥に控える侍従が1人いて、高い床を下りたところにもう1人いる男が、オルレアノ王国を統治しておられる、カオレル・ネテロ・バランテッド・クリア国王陛下の御前である、と声を上げた。
セニは一礼して、中央に延びる赤い絨毯の上を半ばまで進んで、片膝をつき、胸に手を当てて頭を下げた。
ナラカは、そのあとに続いて、セニの斜め後ろで、両手で少しだけ下衣の裾を上げ、片足を内向きで後ろに引き、軽く膝を曲げると、同時に頭を下げた。
1拍置いて、セニが声を上げた。
「国王陛下にはご機嫌麗しくあらせられましょうか。私はアルシュファイド国より参りました、様々な品を扱います、商人のセアニアス・ルトワと申します。本日は、オルレアノ国にて商売を始めるに当たり、まずは陛下にご挨拶をと考えまして、お近付きの印になればと、いくつか品を用意してまいりました。お受け取りいただければ、幸いにございます」
「立て。アルシュファイド国からはるばる、苦労をする甲斐があればよいがな」
よく通る、静かな声が届く。
セニは、立ち上がって、声に少し笑みを含ませながら答えた。
「お気遣い、恐れ入ります。少なくとも、今回来た甲斐はありました。こちらの現状を知るだけでも、今後の役に立ちます」
「そうか。後ろの娘と男は?」
「は。娘の方は、商売の手伝いをしてくれます私のいとこで、男は、いとこの父が彼女に付けました護衛の者です」
「娘の身で商売の手伝い?」
「アルシュファイド国では、珍しくありません。娘たちの品物を見る目が、お客様の求めるものを教えてくれるなど、非常に参考になりますし、応対をさせれば、相手を和らげてくれます」
「そういうものか」
「はい。取り扱いのある品の性質上、お客様が女性の場合が多いですから、男が応対をするよりも、うまくゆくのです」
「ああ。それは確かに、男よりも娘の方が、話しやすいだろうな。その、品とはどのようなものだ」
「はい。ミディ、こちらへ。まずは、女性にとって関心が高いものは布です。アルシュファイド国で作る布は数種類あるのですが、こちらは特に体温を保ちやすいもので、オルレアノ国のように気温の低い国で、喜ばれます」
セニは荷持ちのミディを呼び、品物を取り出して説明する。
そうしていくつか、女性向けの品を紹介すると、陛下にはこちらなど関心を持ってもらえるかと存じます、と別の品を取り出した。
それは置時計だったが、飾りのように止まり木に留まるのは、彩石の小鳥だった。
「こちら、かなりの回数、使えるようになっています、用のある者を御前に呼ぶための術を掛けた、彩石鳥付き置時計です。時計自体も、彩石により、末永くお使いいただけます」
「うん?しかし私にも、人ぐらい呼べる」
「はい。しかしながら、陛下の力量では、この城の敷地内が限度では?」
向かい合えば、自分の属性だけだが、相手の異能の大きさがどの程度か、大体判る。
カオレルは言い当てられて、頷いた。
「ふむ。それはどの程度まで使えるのだ」
「はい。オルレアノ国内であれば、不自由しないでしょう。相手の正式名が必要とはなりますが、まず、招致、と言いまして、人の名と、来い、という言葉の組み合わせで、術が確実に陛下のお声を相手に届けます。短い言葉なら加えられますので、何かを持って来い、ですとか、至急来い、という程度でしたら、単に呼び出すだけでなく、陛下のご意思を伝えることができます」
「なるほど、それは役に立ちそうだ」
「はい、然様に存じます。付け加えますと、そちらは彩石の力を使うため、風の力がなくとも発動します。ですから新たな力を発する必要はありませんし、誰でも使えます」
カオレルは目を見開いた。
「なんと!それは重宝な…」
「はい。アルシュファイド国は、彩石が豊富にあることも国を豊かにしましたが、このように術語を駆使して、誰にでも彩石の恩恵をもたらしたことにより、栄えているのでございます」
「ほう…、そうか。それは、思いも寄らないことだった。すると、術語さえ知っていれば、彩石がなくとも、自由に異能を使えるか?」
「結界など、長期に維持する必要があるものは難しいですが、術語は、異能の発動に、かなりの自由を与えてくれます」
「ふむ…。その術語をこそ知りたいぞ」
「それでしたら、ちょうど、術語の本を持参しております。これは簡単なものですが、とても参考にできるものと存じます。ご覧になりますか」
「うむ、寄越せ」
その言葉を受けて、セニは荷物のなかから本を1冊取り出し、役目の男に渡した。
男は、玉座のある高い床の上から下りてきた侍従に本を渡し、それをカオレルが受け取った。
カオレルは、表紙側から1枚ずつ頁をめくり、目次から、風の章を開いた。
始めの方は、風の強弱や形など、生じ方を制御するものだった。
数は少なかったが、基本と応用があり、それらを参考にすれば、自分でも術語を作ることができそうだった。
例えば、風よ撫でよ、という言葉を基本として、ごく弱い風を吹かせる。
これを応用して、高熱により体調を崩した者に、温度の低い風を送って辛さを和らげようとするなら、具体的には、自分の能力が届く範囲にある、温度の低い空気を呼び寄せて、対象者に心地よい風を送る。
この場合の術語としては、涼やかな風よ、対象者の息が整うまで撫でよ、といったものでよい。
先の頁を繰れば、風の届ける音を操作するものや、空気の種類を変えることで重さを操作したり、呼吸できなくさせたり、火を保ちやすくしたり、空気の密度を変えることで圧力を操作したりといった基本制御と、それらの応用の仕方が記してある。
「ふむ…、これはいいな」
「お役に立てば幸いです。今回、持ち込みました品の多くは、彩石の必要のないものとしました。彩石は使えばなくなりますから、こちらで補充することは難しいですし、アルシュファイド国は、彩石の国外持ち出しを厳しく制限していますので、交換用の彩石を、今度いつ持って来られるか判りませんでしたので」
「そうか。それでも持ち込んでいる品は多いようだな」
「はい。そこもアルシュファイド国の商人としての強みでして」
「なるほど…。お前と繋がりを持つことは、役に立ちそうだ。今回はこのまま帰るのか?」
「いえ、もうしばらく…半年ほど滞在しまして、オルレアノ国のことを知り、品物を持ち込むだけでなく、こちらの品物をアルシュファイド国に持ち帰り、商売できるものか検討したいと存じております」
「ふむ…。我が国に、商売する価値のあるものがあるか?」
「さて、まだ来たばかりですからなんとも言えませんが、ひとつ興味を引かれましたのは、ヌッダの胃袋です」
「ヌッダの胃袋?」
「はい。こちらでは、ヌッダの胃のひとつを、食品や飲み水を入れるのに使っています。それが、外の影響を受けにくく、食品や水を良好に保つようなのです。動物の胃袋ですから、悪くなったり、目に見えない病気の元などがあるのかもしれませんが、この素材には、調べる価値があるのではないかと考えています」
「調べる価値?」
「はい。そのものを加工したり、ほかの材料で同じ仕組みのものを作るなど、利用の幅が広がったり、新たな商品開発に繋がるのなら、それらができるかどうか、また、どのようにすればよいかを調べることには、技術の発展という利得が、価値が生じます」
「しかし、何にも繋がらないかもしれない」
セニは笑って見せた。
「ええ。しかし、調べて、それが何事かを知ることは、今は利用しなくても、記録として残り、ほかと比較するなど、参考になる資料となります。そういう資料は、特別な形とはならなくても、役に立つのです」
「ふむ…」
「そのような情報をアルシュファイド国の者が持つことを、お許しいただけますか?」
カオレルは、一瞬、鋭くセニを見た。
そして少し考えて、聞いた。
「アルシュファイド国の者として?」
「そうです。持ち帰って調べたい。その情報は、アルシュファイド国に残ります」
「…アルシュファイド国の王のものとなるということか?」
「調査する施設は、国営のもの。ええ。機会があるならば、我らが政王陛下は、その情報を利用します」
「お前は、王の指示を受けてここにいるのか?」
「我らが政王陛下は、現在のところ、国としてオルレアノ国と関わるお考えはありません」
問いへの答えになっていなかったが、カオレルは咎めはせず、尋ねた。
「最近、お前の国は、あちらこちらに働きかけているようだな。何があったのだ?」
セニは微笑んで答えた。
「私も詳しいことは知らないのです。ただ、例えば、火山結界を放置しておけば、近いうちに、多くの国が甚大な被害を受けていたでしょう。いくつかの国は、滅びていたかもしれない。そうなれば、アルシュファイド国も無関係とはいきません。国として働きかけてはいなくても、多くの取引をしていますから」
「……。それぞれに、国のためになる何かがあるということか?」
「必ずしもそうではありませんね。最近では、ミルフロト国の王女殿下が来訪され、政王陛下と親しくなり、国交を始めるに至ったとか」
「たったそれだけのことでか」
「はい。ですが、関係を持ち、他者と接すれば、些細な行き違いなどで悪感情が生じることもあります。今代の政王陛下は、大きな決断をされました」
カオレルは、ふと、5年前の夜のことを思い出した。
あのときの決断を、悔いていないとは、言えない。
だが、何度あの場面に立ち戻っても、自分は同じ選択をするのだろう。
「……。まあ、いいだろう。持ち帰り、調べてみよ。その結果を、こちらにも知らせよ」
「ありがたく存じます。必ず、資料をまとめてお渡しします」
「うむ。さて、かなり時間を使ったな。またルベルターザに来たときは、城に来い。下がってよい」
「ありがたいお言葉。また、ご興味を引けるものをお持ちしたいと存じます。それでは、失礼いたします」
セニがそう言って、腰を曲げたときだった。
扉の外で大きな声が上がった。
「国王陛下に至急のお目通りを!壁外警備の者です!」
カオレルは素早く、役目の男に視線を走らせ、返答させた。
「入れ!」
両開きの扉が勢いよく開き、1人の兵が早足で、玉座のある高い床のすぐ下まで進み出ると、片膝をついた。
「申し上げます!バンラガ族が壁外村レディーギアを急襲し、壊滅させたとのこと!」
壁外村レディーギアは、緩衝地区とされる、このルベルターザの南の盆地にある村のひとつだ。
強大な異能により構築されて、今も残るルベルターザの巨大な壁は、不可侵領域を維持していた結界が消失した現在も、ルベルターザを守る障壁として機能している。
その壁のすぐ南にある盆地は、複数の部族の領地に接していて、オルレアノ王国建国以前は、部族間の戦場、また決闘場として利用されていた。
オルレアノ王国の初代国王は、これを改め、この地、アルグリッド盆地を、一切の争いをしない、どの部族にも等しく恩恵を与える、緩衝地区と定めた。
そして、部族間の商取引など、平和的な遣り取りができるように、それぞれの部族領の中間地点に小さな村を設置して、これを国王直轄地として守り、維持することにした。
壁外村とは、これら複数の村のことで、村民はすべて、国王の兵とその家族だった。
「……。壊滅か。生き残った者は」
「女たちは命はあるのでしょうが、攫われたものと思われます。奴らは幼子まで、無残な…」
兵は声を詰まらせた。
知らせを受けて駆け付けた、彼ら壁外警備隊は、彼らの遺体に残された、残虐な痕を目の当たりにした。
火傷の痕や、五体の見当たらないもの。
吊し上げられたり、水に顔を浸けられたまま絶命を語るもの。
なぜああも惨いことができたのか。
「…壁外村すべてに伝達を放て。村を捨てるも止む無しと伝えよ。壁外警備隊は壁内に戻るよう通達を。守りを固めよ。行け」
カオレルの指示を受けて、兵は素早く身を翻した。
「陛下」
侍従が声を掛け、カオレルは呟いた。
「もはやこれまでか…」
国王直轄地の襲撃。
そこに、王の権威はなかった。
「陛下」
再度の呼び掛けに、カオレルは顔を上げた。
「門を閉じよ。ルベルターザの民を守るのだ」
「は。出入りはどのように」
「脇の小門をその都度、開けよ。セアニアス、騒がしくなった。国に帰るがよいかもしれん」
セニは胸に手を当てて、上体を傾けた。
「お心遣いありがとう存じます。ええ、用心して、見極めることにしましょう。どうか、ご無理はなさいませんように」
「うむ。ではな」
カオレルが立ち上がり、背を向けた。
聞き取れない小さな呟きが、セニの耳に届いた。
間を置かず、叫び声が上がった。
「どういうこと!?」
ナラカは叫んで、自分の服の胸元を掴んだ。
いけない。
こんなこと、なんの益も、いや、意味だってない。
けれど。
我慢できない言葉が口から飛び出す。
「攫われた者たちを見捨てるの!?いいえ、それ以前に、バンラガ族を放っておく気なの!?」
「控えよ、娘!」
侍従の鋭い声が身を打ったが、ナラカは怯まなかった。
顔を上げて、振り向いたカオレルを睨み付けた。
怒りで体が震える。
カオレルはナラカから立ち上る赤い火を見たと思った。
茶に赤の混じる、興奮すると赤みの増すその瞳は、遠すぎて確かめられなかったけれど。
その、髪の色。
カオレルは、遠い記憶が波のように戻り、目の前の光景と重なるのを見た。
息が、瞬間、止まった。
じわりと自分の目が、開かれるのを感じた。
「シィア」
その声が肌を撫で、ナラカは、ぞわっと身の毛が立つのを感じた。
「その名を呼ぶ資格はもう、あなたなんかにはない!」
沈黙が落ち、ナラカの震える息がいやに響いた。
カオレルは、意識して呼吸を整えた。
少しの間を置いて、口を開く。
「我が王家は他部族を攻撃しない。金による抑止が切れた今、もう、できることはない。私はせめて、王として、この壁の内にある民を守らねばならない。派兵し、この地の守りを減らして、バンラガ族以外の部族への警戒を緩めることはできない」
「それがっ…、母様たちを手に掛けた結果なの…っ」
カオレルは視線を伏せた。
そうしてから、目を上げて、ただ1人の姪を見た。
「では、お前は何をする」
ナラカは息を吸った。
今、それを問うのは卑怯だ。
そう思うと同時に、引くわけにはいかないと思った。
少なくとも、何もしない選択など、あるわけがなかった。
「…話しに行くわ」
口に出した瞬間、心が決まった。
「この私、オリシア・レスラエルス・クォンティット・クリアが、正統の王位継承者として立つ!」
ほんの少しだけ、アルシュファイド王国での生活が頭を掠めた。
もうボルドとは会えないかもとも。
けれども、その道を捨てても、今、動かなければ。
自分は、この先、地面を踏みしめて歩いては行けない。
オリシアは…ナラカだった少女は、くるりとカオレルに背を向けた。
そのまま、扉を自分で開けて、出ていく。
兵に囲まれるかもと思ったが、止められることなく、謁見の間を離れることができた。
なんの策もない。
苦しいほど、痛いほどに、自分の発した言葉の無謀さが胸を締め付けた。
止まりそうになる息を意識して続けて、オリシアは前を向き、足を進めた。
その後ろ姿を目で追ったカオレルは、彼女の背が見えなくなる前に床に視線を落とした。
「セアニアス。お前は何者か」
セニは薄く笑って、胸に手を当てると、上体を傾けた。
「アルシュファイド国政王陛下の命により、前オルレアノ国王の遺児、オリシア様のお身柄を預かりに来ました」
カオレルは顔を上げ、セニを見た。
「お前の王は、何を企んでいる」
「私には、政王陛下のお考えなど知りようもありません。しかしながら、少なくともご姉弟の再会を望まれ、そして私は、なるべくなら、お2人揃って、平和なアルシュファイド国で成人される道を勧めるようにと承りました」
カオレルは、目を見開いた。
「ボルドが。いるのか。アルシュファイドに?」
「はい。先日より、政王陛下の保護の下、明るく元気にお過ごしとのことです」
カオレルは、言われたことを考えて、聞いた。
「2人を、成人するまで預かると?見返りに何を求める」
「こちらでは理解しにくい考えかもしれませんが、アルシュファイド国では、成人していない者はすべて、保護対象です。政王陛下には、少なくとも、現在、アルシュファイド国におられるボルド様のことは、保護する義務があるのです」
「保護する義務…」
「義務に見返りなどというものを差し挟む余地はありません。まあ、恩を感じれば、何かしら返そうと考える向きもあるのでしょうが、その頃には、お2人とも、ほかの者に押し付けられるのではない、それぞれのご意思を実行する力を、お持ちになっていることでしょう」
「………」
「今回、こちらに寄らせていただいたのは、オリシア様達てのご希望でした。あの方がお心を決めるには、どうしても必要なことでした。思いもよらぬ決意に繋がってしまったようですが、私としては引き続き、あの方をアルシュファイド国にお連れして、せめて一目、弟君にお会いしていただけるよう、努めるつもりです」
カオレルは、しばらく沈黙して、口を開いた。
「あれを追ってくれるか」
「はい」
カオレルは、また少し黙って、続けた。
「アルシュファイド国の使者よ。お前に我が姪の身を預ける。あれが何を望むにせよ、私は邪魔はしない。その資格もないのだろう」
「王よ」
侍従が咎めるような声を上げた。カオレルは首を横に振り、セニを見据えた。
「あれを守ると、約せ」
セニは笑みを消して、視線を落とした。
「私は人を守ることを放棄した身。お約束はできません」
「なに」
カオレルは眉を上げた。
だが、強要はできなかった。
カオレルが言葉を探す間に、セニは顔をゆっくり上げて、異国の王を見上げた。
「お約束はできませんが、あの方を無事、アルシュファイド国に送る努力はさせていただきます。今はそれしか言えません」
カオレルには、今のオリシアにしてやれることはなかった。
弱い言葉だったが、これにすがるよりない現実に、カオレルは薄く息を吐いた。
「分かった。では、申した通り努めよ。行け」
「はい。失礼いたします」
今度こそセニが辞去して、扉が閉められると、カオレルは息を吐いた。
「陛下」
ずっと侍従として成り行きを見守っていた、腹心の筆頭秘書官の男が、声を掛ける。
「私などより、よほど覇気があるな、あれは」
「それでも、今のオルレアノ国の王は、あなたです」
「しかし、私よりも」
「陛下。あの方には、何の後ろ盾もない。仮にアルシュファイド国の政王が後押ししたとして、いきなり出てきた、しかもあの前国王の遺児です。国民が納得しない」
「………」
「子のないあなたが、あの方に跡を継がせるのなら、それなりの準備が必要です。いかがされます。そのようになさいますか」
カオレルは、ゆっくりと秘書官を見上げた。
「お前は、あれを助けてくれるか」
「陛下がそうお望みとあらば、そのように」
カオレルは深い息を吐き、そして顎を上げた。
まだ、自分は、5年前から、何も役目を果たしていない。
自分にできることがあるとするならば。
たった1人の姪に、この座を渡すまで、守ること。
それができたとき、自分が作ったあの夜の惨状に、少しなりと言い訳が立つ。
いや。
そのような考えは、オリシアにも、ボルドにも、語れない。
あの夜のことは、あのときのこと。
後悔しないのは、そうと示さないのは、あの時、救われた民たちが確かにいたからだ。
そんな手段しか執ることのできなかった自分の力不足は、痛いほどに承知している。
だが自分は、それにより王となった。
ならば、その過去を呑み込んで、立ち続けなければ。
「もし、オリシアが戻るなら、そして望むなら、この座は、あれに譲ることにする。手伝え」
「御意のままに、陛下」
「うむ」
カオレルは、一歩を踏み出した。
これまで描けなかった先のことに、光が射した気がした。
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