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―訪問者―
ナラカと呼び習わされる少女はその時、仲のよい少女と水場で食器を洗っていた。
族長が呼んでいると、目下の少年が声を掛け、了解したナラカは、手を拭きながら、あとのことを、残る少女に頼んで、少年のあとに続いた。
族長のバラガ…移動住居のひとつだ…に入ると、少年は去り、ナラカはなかにいる者たちを確認した。
族長と、その息子。
幼馴染みのヤティマ・ナレ・マリ。
そして、先日から客人として滞在している男。
「座りなさい」
族長の息子がそう言って、空いている円座を示し、ナラカはそちらに、片足を立てて座った。
すぐに動けるよう、座るときはそのようにするのが、この部族での習わしだ。
高齢の者と客人は、好きに座ってよく、族長と客人は、胡座をかいていた。
腰を落ち着けたナラカが顔を上げて、問うように族長の息子…サマハ・ダンラを見ると、彼は父、ダリ・ダンラを見た。
ダリはひと息つくと、ナラカをその静かな目で見ながら、言った。
「このムラから出なさい」
ムラとは、この部族が移動するときの、ひとつのまとまりだ。
彼ら、マディーナ族は、ひとつのムラに10世帯未満が所属し、所領内を不定期に移動しながら生活している。
ナラカが所属するこのムラは、族長の血縁で構成されている、マディーナ族の中核だ。
この5年、生活してきたそのムラを出ろということは、マディーナ族では、これ以上ナラカを置いておくことはできないということなのだろう。
恐らくは、ナラカの素性が知られることとなったのだ。
「分かりました、今日、これから?」
ナラカは、異を唱えることをする気はなかった。
いつこんな日が来ても、おかしくないと思っていたし、最近では、自分からムラを出ることを考えていた。
ムラを出たあとのことに、明確な予定図はない。
ただぼんやりと、王都に行くことを考えていた。
「ムラを出たあとのことを考えているのか」
ダリに問われて、ナラカは強い瞳で彼の目を見た。
「あなたたちには関係ない」
腹の奥底に、不意の怒りが湧いてきた。
感謝している。
これまで彼らが与えてくれた生活には。
けれども、その態度の端々には、ナラカを罪人の娘ででもあるような感情が見られ、小さくない反発を植え付けた。
今更、しかもムラから追い出そうというこのときに、自分の行く末のことなど、気に掛けられるような温かい関係だとは思っていないし、この先の自分の行動に口を出す権利など、彼らにあるかと、叫びたい気持ちが先行した。
そのとき、柔らかな声が、ナラカの心を撫でた。
「いや、口出ししようというわけではないんだ。ただ、少し提案があってな」
ささくれた心が宥められ、ナラカはひと呼吸して、発言した客人を見た。
まだ若い、20代と思われる男だ。
ナラカは言った。
「………。風を使わないで」
今、風の力を使われた。
心を宥めるそれは、多くありがたがられるが、今のナラカには不要なものだった。
少なくとも、彼女はそう思う。
客人は困ったように笑って、ああ、悪かったと言い、続けた。
「だが、気持ちが高ぶっていては、こちらとしてはまともな話し合いとは思えないからな。もう使わないから、君が落ち着いていると信じさせてくれ」
ナラカは、黙り込み、もうひと呼吸して、言った。
「提案とは?」
客人は笑顔を保ちながら頷いて、名乗った。
「俺はアルシュファイド王国王城書庫収集官セアニアス・ルトワと言う者だ。セニと呼んでくれ。今回、本来の役目ではないのだが、たまたま近くにいたので、君に我らが政王陛下からの知らせと、言伝と、提案を持って来た」
アルシュファイド王国とは、世界にひとつしかないこの大陸の、ほぼ中央に位置するという国だ。
そんな国とは接点がない。
ナラカは眉根を寄せて尋ねた。
「知らせ?」
「ああ。君の弟君のことだ」
ナラカは、その瞬間、はっと息を呑んだ。
上体を前に寄せて、鋭く問う。
「無事なの!?」
「無事だ。今のところ、政王陛下の保護下にある」
「どうする気なの」
警戒心剥き出しで問うと、セニは仕方なさそうに笑いながら、そうだな、とひと声、置いた。
「うん。その子を傷付けようとはしていない。それはまず、信じて欲しい」
ナラカは、信じられない、という言葉を胸に浮かべる一方で、落ち着くように自分を律した。
落ち着くのだ。
今、保護、と言った。
捕らえられていると考えることもできるが、ひとまず、危険からは隔離された状態と言えるのかもしれない。
「…分かった。信じる。どこにいるの」
「今は、アルシュファイドの王城に滞在してもらっている」
「アルシュファイドに…」
「うん。それでだ。まずひとつには、移動手段はこちらで用意するから、一度、アルシュファイドに来て、彼に会って欲しい。それが、まず第一の、彼の望みだから」
「ボルド…」
実弟、ボルド・イスマヌエル・レベシス・クリアとは、5年前に別れたきりだ。
姉の記憶などないだろうに、再会を求めてくれている。
ナラカは、胸が熱くなるのを感じた。
「どうだ?来てくれるか?」
セニの言葉に、ナラカは、はっと我に返り、素早く頭を働かせた。
「…私たちをどうする気」
セニはまた少し、仕方ないなと言うような笑みを浮かべて、答えた。
「君たちをどうこうする気はない。そうだな、具体的に言えば、現国王に引き渡す気もないし、君たちの存在を国交に持ち出す気もない。現在、アルシュファイドは、国として、オルレアノ国とは付き合いがない。そして今のところ、関わり合う気もない。仮に君が、アルシュファイドを後ろ盾として、君の国の主権獲得に動いたとしても、現国王やほかの国々に向けて、働きかけるつもりもない」
ナラカは、言われた事柄をひとつひとつ考えてみた。
もし、騙されて、今、挙げられた事柄が実現したとしたら、弟と自分はどうなるのか。
そしてそれ以外に、考えられることはないか。
まず、現国王に引き渡さない、と言った。
これは信じてもいいだろうか?
すでに弟は、アルシュファイド王国の王の下にいる。
いや、そもそも、それは真実なのか。
「証拠は?弟が生きて、あなたたちの下にいるという」
「うーん、残念ながら、それは証明できない。ただ、信用してもらえそうな事柄としては、彼の瞳は金で、髪は緑が混じった茶色ということぐらいか。我々も本人の言葉から、身元を信じているが、たぶん間違いないだろう」
「護衛がいるはず」
「うん。マウロ・ナバティハという者だったそうだが、一年前に亡くなったということで、彼と思われる遺体を確認した。死因については、病気か老衰と思われる。心当たりは?」
ナラカは、世話になった老兵の姿を思い起こした。
そうだ、マウロ。
あのときすでに90歳を超えていると話していた。
確認はできなかったが、あの混乱のなかで弟を救い出せたとしたら、彼以外にはいないだろう。
「…あるわ。マウロが死んだあと、弟は?」
「しばらく、その護衛と暮らしていた家で、畑の野菜などで食い繋いでいたということだ。先日、体調に異変があって王都に出てきた際に、政王陛下が保護する運びとなった」
「体調に異変?」
「ああ。体調と言うよりは、異能の異変だな。現在は治っているので、心配いらない」
異能とは、この大陸に住む人すべてがそれぞれの配分で持つ、土、風、水、火の力のことだ。
ナラカは、弟の無事を確かめなければと強く思った。
だが、行動を起こそうにも、彼女はまとまった現金を持ち合わせていない。
自力でアルシュファイド王国に向かうことは、難しく、これから金を稼いだとして、いつになるか判らない。
旅に必要なあれこれを負担してくれると言う、この話に乗ることは簡単だ。
だが、目の前のセニという男は、信用できるだろうか。
ナラカは、改めてセニを観察した。
「……。どのように移動するの?」
「ん、普通に、まずはこちらの部族から馬を借りることになっている。陸路はその馬で、宿泊場所もこちらで手配できる。途中、迎えの騎士たちが来るから、彼らと合流して、あとは私は、引き継いでもらうことになっている」
「騎士?」
「ああ。政王機警隊と言う部隊で、3人来てくれる。彼らは、政王陛下直属の部隊だ。1人、女性がいるから、少しは安心してもらえると思う」
「騎士3人と、女の人?」
「いや、女性騎士が1人含まれる」
「女性騎士…」
「そうだ。ひとまずそれで、アルシュファイドに行ってもらって、弟君との再会が済んだら、そのとき改めて、政王陛下は、君らと話がしたいと仰せだ」
「会って、話す…」
「うん。今後について。どうだ?承諾してもらえるか?」
「今後とは?」
「もちろん、君たちの今後の生き方についてだ」
「………」
少し沈黙して、ナラカは言った。
「アルシュファイドの王には、関わりないこと」
「そうだな。しかし一度、弟君と関わった以上、放ってはおけない。なぜなら、彼はまだ10歳だ。アルシュファイドでは、その年齢の子は保護されてしかるべきだ。出自に関係なく、今、アルシュファイドにいる彼に対して、政王陛下はその立場から、保護する義務がある」
「保護する義務…?」
「ああ。まあ、君らには理解しにくい考えだろうがな。簡単に言うと、彼を放置することは、国民から非難を浴びる結果となる。確固たる王権を保つためだと言えば、納得してくれるか?」
「国民から、非難…」
「ああ。どの王権も、その国の民の支持がなければ、保つことはできない」
「………」
ナラカは再び沈黙して、それから言った。
「あなたの国の王は、民を恐れているの」
「いいや。ただ、王権がどのような力か、理解しているだけだ。民に対して、納得できる説明のできないことは、小さなことだろうが、いずれ国民の不信、不満、反発へとつながる。そうやって国が荒れれば、主権などというものは行使できなくなるんだ」
ナラカは、その言葉の内容を考えた。
セニはナラカをじっと観察しながら言った。
「とにかく、政王陛下は、君の弟君の今後に対して、手助けしたいと考えている。だから最も近い肉親である君を交えて、君の今後の身の振り方も含めて、話し合いたいんだ」
「手助け…?」
「信じようと信じまいと、そのような気持ちでおられる。どうだ?せめて、彼に会いに行かないか。それに、アルシュファイドに行けば、今後の行動を助ける金を稼ぐことは、この国よりも楽にできるだろう」
「どうやって」
「手っ取り早いのは、彩石の採石だ。アルシュファイドの採石場で彩石を拾えば、誰でも換金して、その金を貯められる」
彩石とは、人の異能の発動を助けるための石で、この大陸のどの国でも、どんな場所でも価値が高く、強く求められるものだ。
「そんな、簡単なものなの」
「ああ。他国の者は、アルシュファイドに向かうための金を持たないし、そんな手軽な方法など、まず、信じないという者が多いんだがな。採石が難しいんじゃないかと考える者がほとんどだ」
ナラカは、悪くない話ではあると認めた。
ただし本当に、アルシュファイド王国の王に下心がないのならだ。
そのとき、ヤティマ…ヤトが口を開いた。
「俺は、信用しても大丈夫だと思う。それに、これから、この国は荒れそうだ。この機会に脱出すべきだと思う」
「荒れる?」
「国王の権威が弱まっている。もしかすると、オルレアノという国は、国として保てないかもしれない」
「どう…いうこと…」
ダリが答えた。
「今、部族間の抗争が激しくなっている。我らマディーナ族も、守りを固めなければならない。そのような臨戦態勢の空気は、時に狂気を招く。ムラの者たちは、お前という存在を許容できなくなるかもしれない。どうにもならない事態になる前に、ムラから出るのが良いだろうと言っている」
「そうではなくて」
ナラカは激昂した。
「王位を簒奪しておいて、国を保てないとはどういうこと!?」
セニが宥めるように言った。
「まあまあ…。厳しいことを言うが、今の君に出来ることもないだろう?」
ナラカはセニを睨んだが、その通りだ。
15歳となり、ムラのなかで一人前に役目を果たしてはいるが、それはこのムラのなかだけのことで、ほかのムラや、部族との交渉などでは、責任を取ることのできる者とは認められない。
自分は未だに、無力な子供でしかないのだ。
「考えるべきは、自分のこれからだろう。どうする?アルシュファイドに行くか、行かないか」
セニの質問は、ごく簡単なものだった。
行くか行かないかとするならば、それはもちろん、弟に会いに行く以外はない。
「行くわ」
けれど。
何もできなくても。
母王を弑して、王位を簒奪した叔父の、今の顔を見たい。
いや。
見なければ、自分は、きっと動けないのだ。
「その前に、行きたいところがある」
「どこに?」
セニが聞き、ナラカは視線を伏せた。
「それは、あなたと話す。アルシュファイドに行く前に、寄ることはできる?」
「まあ、そうだな。あまりに遠方は、俺が連れていくということはできないが。オルレアノ国内程度の範囲なら、俺が同行するし、路銀はすべて負担しよう」
「では、頼むわ。族長、いつ発てばいいの」
「今週中に、準備ができ次第」
「分かったわ。これまで、世話になったこと、感謝している。あれしきの装身具では足りないだろうから、いつか、相応の報酬を用意してくるわ」
装身具…王都から逃れてきたときの、それなりに高価なものだ。
それらは、ここにきたとき、身柄を引き受けてもらう見返りとして、マディーナ族に与えたので、疾うに売り払われたはずだ。
ダリは、静かな目でナラカをじっと見つめた。
「よしなさい。身柄を引き受けた分の報酬はあれで充分だし、与えた役割を果たすことが、ここで生活する対価だ。お前は、我らのムラで、充分な働きをしてくれた。借りなどはない」
ナラカは、ダリの目を見返して、視線を落とした。
「そう。分かった。では、そのように心得る。ありがとう」
「うむ。我らからは、これだけだ。この先のことは、セニと相談しなさい。行っていい」
「ええ」
「それじゃ、早速寄りたいところというのを聞こうか。今、俺が泊めてもらっているバラガでいいか?」
そのように話しながら、ナラカは、セニとともに族長のバラガを出て、そのあとをヤトが追った。
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