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5.そして、巡り行く
目覚めると、わたしは自分の部屋に寝かされていた。額を探る。角はおろか、そこには傷痕一つなかった。血の流れた形跡もない。
母も姉も、普段通りの顔をして普段通りの生活を送っていた。無論角などありはしない。開かずの間は元通り閉ざされていて、開けようとしてもびくともしなかった。何事もなかったかのような日常がそこにあった。
あれは夢だったのだろうか? それにしては、あの体験はリアル過ぎた。いくら考えてもわたしには判らなかった。判るのは、あれ以来家の中で妙な気配を感じることはなかったし、あの女に出会うこともなかったということだけだ。
高校を卒業してからすぐ、わたしは家を出た。わざと県外の大学へ進学し、下宿で一人暮しを始めたのだ。とにかくこの土地にいたくはなかった。ああ言う体験をしなくても、いずれは出て行ったとは思っているのだが。
大学を卒業し、就職した会社でわたしは一人の男性と出会った。わたしと彼は恋に落ち、何年か付き合った後結婚した。二人の子供にも恵まれ、今では平凡な主婦だ。秋月の家にいると手に出来なかった幸せを、わたしは手にしたのだ。
わたしは公園のベンチに腰掛け、遊ぶ子供達を見ていた。傍らのベビーカーには、生まれたばかりの娘が眠っている。
二人目の子が女の子だと知らされた時、わたしは内心心配だったのだ。この子に──秋月の女の因縁が及んでいないかと。だが、それは杞憂だった。娘は日に日に夫に似て来ている。秋月の女の貌ではない。自分の角を折ってしまったことで、秋月の因縁から逃れられたのだろうか。それならそれでいい。
「賢ちゃん、あんまり遠くへ行っちゃ駄目よ」
「はーい」
五歳になる息子が振り返って答えた。その顔を見て、わたしは不意に不安になった。息子は、最近とみにわたしによく似て来た。
(──まさか、ね)
莫迦莫迦しい。息子は男の子じゃないか。男の子は母親に似るというじゃないか。
娘が、わずかに身じろぎをした。
☆
(なんだろうな、これ)
少年はポケットから短い尖ったものを取り出した。
生まれたばかりの妹の頭にくっついていたものだ。ぼくには最初から見えていたのに、パパもママも全然気付いてなかったみたい。興味を持って触っていたら、ふとしたはずみに取れてしまった。怒られそうだから黙ってたけど……。
(ぼくには、ない、よね)
少年は自分の頭を触ってみた。髪の毛があるだけだ。妹のまねをして、それを頭に乗っけてみる。
「あれ?」
手の中の固い感触がすっとなくなった。その尖ったものは、少年の頭の中に溶けるように消えてしまったのだ。少年は首を傾げ──そしてそのまま、尖ったもののことなど忘れてしまった。きっと何処かに落ちて、なくなっちゃったんだ。
少年は遊びに戻って行った。
一部始終を見ていた者がいることも知らずに。
──面白い子を生んだな、美恵子。
──知らぬこととは言え、妹の運命を自ら肩代わりするとは。
──さて、この子がどんな“秋月の女”に育つものか。
──実に……楽しみなことよ。
ベビーカーを押し、小さい子供を連れた母親が来る。彼は無言で道の脇に避けた。中学では札付きのワルだと思われている彼だが、女や子供には何気なしに優しい。
(……ん?)
すれ違いざま、彼の目に妙なものが写った。こういったものを見ること自体は彼にとっては珍しくないが、今日は少々気を引かれた。
「ミョーなもん背負ってやがんな、ガキのくせに」
母親に連れられていた幼い男の子。まだ小学校にも上がってない年齢だろうに、一丁前に着物姿の女なんぞくっつけている。
「ま、カンケーねえか」
彼は十五歳になったばかりだった。まだ自分のことだけで手一杯の年代だった。だから、……それだけだった。母子連れも中学生も、互いに言葉一つ交わすことなく離れて行った。
それは一見、何処にでもある平凡な昼下がりの風景だった。
──鬼の運命を背負った幼子と、人に見えないものが見える中学生が次に関わるのは、それから十数年の後になる。
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