3.秋月の女

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3.秋月の女

 秋月の女は男を食うという。  ──その昔、秋月の家には一人の娘がいた。娘は大層美しく、近辺の評判となっていた。彼女は求婚者のうち一人の男を選んで婿にし、しばらくは睦まじく暮らしていた。  しかし、夫婦の間にもだんだん隙間風が吹き始める。元々この女は嫉妬深い性質で、夫が他の女と少し口をきいただけでも烈火の如く怒ったという。夫もそんな妻を負担に感じていたのだろう、ついにある日他の女と手に手を取って逃げてしまった。  女は怒り、そして哀しんだ。女は四方を壁で囲んだ塗込(ぬりごめ)の部屋に入り、七日七夜飲まず食わずで閉じこもった。  七日が過ぎて再び姿を現した時、女はすでに鬼と化していた。角が生え、口は耳まで裂け、目は金色に輝き、それは恐ろしい姿であったという。女はそのまま一晩のうちに千里を走り抜け、逃げた男を見つけ出した。鬼と化した女は男を食い殺し、その首を抱えたまま何処へともなく姿を消した。その後の行方はようとして知れなかったという。  その後、部屋の中を調べてみたところ、次のような和歌が壁に血で書かれていた。   秋月のうらみ満つるや君去りて   こひし想いの鬼となりぬる  人々はこれを恐れ、二人の霊を奉る祠を建てた。その祠は今もなお残っている。  秋月の家は二人の間に生まれていた女の子が継ぐこととなった。それ以来、秋月家は女が当主となって続いている。男が当主となると決まって旱魃や地震、火災などの災いが起こり、これは女の祟りだろうと人々は噂したという。  わたしは本を閉じた。  これが、この土地の者のDNAに刻まれている畏れの正体だ。まるで「道成寺」か「鉄輪の女」のような、嫉妬深い女。それがわたしの祖だ。  あれから一年が経とうとしていた。わたしは図書館でこの辺りの伝説などが書かれている本を、片っ端から借りて読むようになっていた。  あの日から、この家の中に私達の他に何かがいるような気がしてならない。母とも、姉とも、澄江さんとも違う気配が、ひそやかに家の中を歩き回っている──そんな気が。いきなり振り向いてもそれが正体を現すことはない。ただ何もない空間だけがぽっかりと広がっているだけである。  だが、判る。この家には……何かがある。私の知らない何かが。  本に書かれたことは、どれも大して変わり映えはしなかった。それはそうだろう、本を書く者は皆秋月の外にいる者だ。秋月の中に入ってみなければ判らないことだって、きっとある筈だ。  そして、今日はそのチャンスである。多分、最初で最後の。 「美恵子さん?」  澄江さんの声。わたしは慌てて本をしまった。 「あ、はい、どうぞ」  澄江さんが入って来た。美しい晴れ着を両手に抱えて。 「美恵子さん。お支度いたしましょうね」  今日はわたしの十八歳の誕生日なのだ。  晴れ着を着たわたしを、女達が迎えた。  まあ、おめでとう美恵ちゃん。綺麗になったわね、これでもう一人前ね。そうね、何処に出してもおかしくない秋月の娘になったこと。楽しみだわ、美恵ちゃんはどんな……になるのかしら。  まただ。  聞き取れない言葉。いや、わたしの意識が聞くことを拒否しているのか?  女達に挨拶しながら見回してみる。宴の中に修司の顔は見えなかった。代わりに女達の顔、顔、顔。もしもこの中に“あの気配”が混じっていても、誰にも気付かれないだろう。  夜も更け、宴もたけなわになった頃、母がわたしを手招いた。宴の喧騒から離れ、母と二人きりになる。 「何でしょうか」 「美恵子。おまえにこの家のしきたりを話しておかなければなりません」  来た。わたしは思わずぐっと手を握り締めた。それこそがこの家の秘密に迫る鍵だという確信。根拠はないが、はっきりと判った。母は言葉を続けた。 「今夜一晩、あの“開かずの間”で過ごしてもらいます」  “開かずの間”。その言葉を聞いた時、わけの判らない感情が全身を走った。恐怖だ。それも、本能的な。どういうことだろう。どうしてあんな古ぼけた扉がこんなに怖いんだろう。  母は先に立って歩き始めた。わたしの身体は自動人形のように勝手に動いて、それに続いた。行きたくないのに。あそこには、何か恐ろしいものが待っているのに。わたしと母の姿を見て、女達がさざめく。まあ入るのねあの部屋にに入るのね楽しみだこと美恵ちゃんはきっと立派な秋月の女になるわ。  だらしなく続く薄暗い廊下。ぐるぐる回って、奥へ奥へと導かれる。迷宮。その最奥にあるのは、開かずの部屋──ブラックボックスだ。多分そこには、秋月の家が長く育んで来た闇がある。判るのに……判っているのに、足が止まらない。母はすり足で、決して足音を立てないように進む。  ずっしりと重そうな扉が見えて来た。母は懐から黒光りする大きな鍵を出して、錠を外した。 「さあ、入りなさい」  暗がりの中で母が言う。わたしに背を向けたまま。わたしの足はすくんでしまって、動かない。 「入りなさい、美恵子。あんなに会いたがっていたじゃないの──あの方に」  振り向く。ゆっくりと。  その、頭には。  ──般若の面にあるような、角が、あった。 「な……」  母が微笑む。その表情はいつもの母と全く同じで、それがかえってアンバランスな不気味さをかもし出していた。わたしはとっさに逃げようとした。が。  いつの間にか、廊下をふさぐように──秋月の女達が集まっていた。誰もが皆、角を生やしている。形も大きさもバラバラな角の下には、やはり例外なくよく似た美しい顔があった。わたしは悟った。この女達は「同じモノ」なのだ。そして今、わたしを同じモノにしようとしている。  女達がじわり、とにじり寄る。わたしは後ずさった。母が扉を開ける。この中にしか行き場はない、とでも言うように。 「あの方がお待ちよ」  あの方。それは誰だ?  扉の内部には暗闇が口を開けている。他に選択肢はなかった。  わたしは暗闇の中に飛び込んだ。
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