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意識が遠のく。何でもいいから考えていようと試みた。
(俺が死んだら――)
しかし浮かんできたのは最悪の結末だ。しかもその妄想は止まらない。
(悲しむやつは何人いるだろうか)
自問して、自嘲する。そんなやつはいない、という分かりきった答えに辿り着くからだ。強いて言えば、前金を払った依頼主が少し悔しがるかもしれない。
(悲しむやつがひとりでもいたら、無茶な依頼は受けなかっただろうか)
そんな取り留めのないことを考えた。
そのうちに、きわめて場違いな鼻歌が路地裏に響いた。それは徐々に近づいてくる。
「ふーん、ふ・ふ・ふーん――おやぁ?」
「……」
「あれぇ? 私もしかしてぇ、見つけちゃいました?」
――見つかった。夜鬼だ。
治安部隊の制服である黒い軍服を着た少女。襟章を見るに階級は少尉。その厳めしい装いに不釣合いな、白いフリルの雨傘を差していた。
「『その夜鬼は薄桃色をした髪が印象的だった。血のように赤い瞳は血統種の証。さらに、とてもとても美少女だった』――今そう思いましたよねぇ?」
少女のふざけた態度に閉口した。
ただし特徴に関しては概ね彼女の言う通りで、特に血統種を示す赤い瞳は、夜鬼の中でも身体能力に優れた名家の出身であることを意味する。
少年はついに自分の命を諦めた。今の自分に抵抗する力は残されていない。
しかしこの少女は、予想外の行動に出た。
ぴくっとその耳を表通りに向けたかと思うと、
「この傘で顔を隠していて下さいね」
自分の雨傘を少年に差し出してそう言った。そして表通りへと歩みを進める。
少年は困惑したが、数拍遅れて彼の耳も追手の足音を捉えた。少女の思惑は見えぬが、慌てて彼女の指示に従った。
やや丸みを帯びた雨傘が少年の姿を表通りから覆い隠す。白い生地は街灯の光を僅かに透かすが、外の動きは丸きり見えない。ただ近づいてくる複数の足音と、少女の足が路地裏の入口で止まった音だけが聞こえた。
「――路地裏に潜んでいる可能性もある。探せ!」
「お疲れ様ですぅ」
威勢の良い男の声の後、間延びした少女の声が聞こえた。
「――! 少尉殿、こんなところで何を?」
「見回りですぅ。逃亡犯がいるとかで? 怖いですよねぇぇ」
微塵も怖がっていない口調で少女が言った。男たちは少女が苦手なのか、対応に苦慮する様子が傘越しに伝わってきた。
「こちらはぁ、私が見ておきました。異常無し!なのですぅ」
異常無し――少年はその報告に耳を疑った。少女は自分を見逃そうと言うのか。
しかし別の男が、路地裏に不自然に置かれた傘に気づいた。
「あの白い傘は?――少尉殿のものでは?」
少年の背筋が凍る。しかし再び少女の間延びした声が聞こえた。
「浮浪者の方に差し上げたのですぅ。こーんな冷たい雨の中でぇ、かわいそうじゃないですか?」
男たちは興をそがれたようだった。
「さすが少尉殿、人間の浮浪者にもお心を配られるとは――ドューカス家のご出身だけあってご立派ですね」
そう言った男の言葉には少しも敬意が感じられなかった。どちらかと言えば嫌味に聞こえた。
「えー、そうですかぁ? 私ぃ、当たり前のことをしただけですぅ」
しかし少女はそれに気づかずに、あるいは気づかないふりをして明るく答えた。
互いに敬礼を交わすと、男たちはその場から去って行った。遠ざかってゆく足音と共に囁き声が僅かに聞こえた。
「むかつくよな、あの態度。何であんなのが――」
「あれで名家の出身なんだから仕方ないだろう」
やがてそれらが聞こえなくなると、少女はむくれた。
「聞こえてますぅ。陰口は本人に聞こえないところで言って欲しいですぅ」
そう思いませんか?と少年のほうを振り向いた。
少年は雨傘を下ろすと、ああ、ととりあえず同意した。
「助かったよ。礼を言う」
「ええー! 良いですよぉ、お礼だなんて。憐れな負け犬の濡れ鼠になっていた泥棒猫さんを助けただけですからぁ」
「……あんたが嫌われる理由も何となく分かるがな」
少年は少女に歩み寄ると雨傘を畳んで返した。折りしも雨は小降りになっていた。
表通りを伺い、軍服姿の夜鬼がいないのを慎重に確認する。
「そんな体で、どこに行くんです?」
「どこって――逃げるんだよ。おかげで少し体力を回復できた。
それとも、やはり俺を捕まえるのか?」
んー、と少女はひとしきり迷う素振りを見せた後、名案を思いついたとでもいうように人差し指を立てた。
「そうだ! 私のお家に行きましょう、それが良い、そうしましょう」
「――何で、そんな面倒なことを」
「誰かー! た・す・け・――むぐぅ」
叫ぼうとした少女の口を慌てて塞ぐ。
「分かった。行けば良いんだろう、行けば」
少年はこの破天荒な少女にいよいよ観念した。
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