完結編 心の片隅のほんの小さな染み

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完結編 心の片隅のほんの小さな染み

「あ、ねえ。小原くん。…ちょっと待ってて。そこで」 背後から焦ったみたいな声をかけられてとりあえず足を止めて振り向いた。 放課後、昇降口に向かって歩いてたタイミング。台風が接近してるって朝母親が言ってた通り、ちょっと不穏な空模様だ。これから更に本降りになりそうな空気を読んで、さっさと家に帰るに限る、と足を早めてたとこ。 窓からグラウンドを見るとうちの部も外に出てはいない。三年のこの時期で引退済みだからもう関係なくなっててもつい習慣で目が確認する癖がついてる。どうやらもう既に降り始めてる、ってことか。練習中止だな。 さっきの声は女の子だ。振り向いて確認して、それが同じクラスの岩井ってやつだってわかる。何となくそうかなとは思ったけど。声だけで誰だか確信できるほど相手をよく知ってるってわけじゃないので。 階段の踊り場で、ちょうど曲がり角だったから見通しも悪くてあんまり長く立っていたい場所じゃない。ばたばたと足早に傍らを走り抜けていく連中をかわしつつ、俯いて足許を用心深く確認して降りてくる岩井を待つ。内心焦れったいけど、さっさと歩けよとかも言えないし。急かして慌てられて、階段を踏み外されたりしたら困る。 「何?どうかした?」 何か教室に忘れ物でもしたか、それとも済ませてない用事でもあったか。だけど俺は今特に何の委員でもないし。岩井との接点も改めて思いつかない。 岩井は慎重に歩みを進めて、ようやく俺の横に並んでから一緒に降りるよう促してきた。 「途中まででいいからさ。歩きながら話そうよ。もう帰るんでしょ、野球部ってもう引退済みなんだよね三年は?どっちみち今日は雨で休みか」 「まあ。グラウンド使えないし、屋根のあるとこも他の部が使ってるし。満杯で危ないから」 ぼそぼそと説明する。 数年前までは野球部もほぼ年中無休、盆と正月くらいしか休めなかった時代があったらしいけど。近年になって適正な休養を取りながらの活動が望ましい、って方向転換が進みつつあるみたいで、雨の日でも無理にスペースを見つけて吹き抜けや廊下でトレーニングをさせられることはなくなった。下手に怪我したり事故があったらそれも問題だし。 こういうの、働き方改革っていうのかな。全然違うか。 下駄箱で靴を取り出しながら、岩井は何故かつくづくと俺の頭に目を向けた。 「そういえばうちの野球部ってさ。禿頭じゃないんだよね。これって、引退後伸びたってわけじゃないでしょ?小原くんのつるっ禿げなとこ見た記憶ってないし」 「それを言うなら坊主だろ。根本的に意味が違うよ、生えてないか剃ってるかだから」 どういう日本語センスだよ。呆れて思わず突っ込むと、岩井は悪びれもせずにしゃあしゃあと弁解した。 「それは知ってる、頭では。ちゃんと区別ついてるよ。ただ口が間違えただけだから」 「言いたいことはわかるけど」 まあ確かに、自分でもそういう状態になることはあるし。でも、聞く相手によってはセンシティブな話題かもだから。こいつの身の回りに『生えてない』タイプの知り合いがいなきゃ別にいいけどな。お祖父ちゃんとか父親とか。ちなみに俺の周囲に『禿げ』に分類されるジャンルの人はいない。強いて言うなら父方の福井の祖父はちょっとその、額が後退し気味か。本人は少し気にしてるみたいだから、俺なら彼の前でそんな言い間違いするのは忍びない、かも。 俺は自分の靴をぽん、と地べたに放り出し、踵を潰したままつっかけて履きながら一応さっきの問いかけに答えた。 「他の地域のこととかはよくわかんないけど。うちだけじゃなく地区大会とか行っても丸坊主の中学って知ってる範囲じゃないよ。今どきそんなの強制される学校なんてあんまりないんじゃないの」 「でも、高校野球って丸禿げじゃん」 だから『禿げ』言うなってば。 俺は首をすくめて適当にいなした。 「まあ、ああいうとこに出てくる強豪校とかは気合いも違うんじゃないの。俺らは楽しく野球できて、地区大会いっこでも先に進めたら大喜び、ってノリだからさ」 肩にかけた鞄の中から折り畳み傘を取り出す。空を見上げると、早くも思ったより雨脚が強い。やっぱり朝、『親父』に言われた通り長い傘持ってくりゃよかった。荷物になるのが嫌だって思っちゃったから。 「公立中学の部活の軟式野球部なんて、でも大抵そんなもんじゃない?だからもしかしたら、シニアリーグとかで硬式やってて野球で高校行くような奴は中学でも気合いの丸坊主なのかもよ。知り合いにはいないからよくわかんないけど」 「小原くんは小さい時から野球やってたわけじゃないの?そこでの元チームメイトが甲子園目指してるとかは」 ひょこ、と俺の隣で呑気な顔で空を見上げてる岩井。俺たちの横をすり抜けて雨の中に出て行く生徒たちの何人かが傘を開きながらちょっと微妙な顔でこっちをちらっと見る。 違う、カップルでも付き合ってもいないから。とか訊かれてもないのにこっちから弁解するわけにもいかないし。俺は内心でため息をついた。
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