プロローグ(1)

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プロローグ(1)

 ひと月に渡った航海から愛する祖国ブライトヘイルへ帰港すると、桟橋には屋敷からの迎えが来ていた。  わざわざ迎えに来ること自体が稀だが、港の外ではなく、こんな桟橋のところまで出ていることなど初めてのことだ。 「王宮からのお召しがございます」  屋敷の留守を任せている家令のジョージ自らがそこにいたのだが、彼は出迎えの言葉に続いてそう言った。 「このまま行くのか?」  驚いて思わず尋ねてしまう。今回の航海中は雨が少なく碌に風呂にも入っていないので、かなり臭う。衛生管理上なるべく洗濯はしていたのだが、着替えはそう頻繁に行っていたわけではないので、衣服もそれなりに汚れている。  今回の航海は王の命で海賊討伐に出ていたわけで、責任者として報告の為に王宮には行く予定だが、報告書を揃え、最低限の身形を整えてからのつもりだったし、それが通例でもあった。それをどうして急がせるのか。  とにかく急げ、とジョージは急かして主人を待たせていた馬車に押し込んだ。 「王はなにを言ってきたんだ?」  三日前に届けられたという書状を開きながら、思わず溜め息が零れる。七つ年の離れた異母兄は、もう一人の兄と一緒になって、末弟のエリックに対してどうしようもない無茶振りばかりする。それは幼い頃から変わらないことで、今回もそういった類かと思ってみたが、書面には『帰還次第早急に顔を見せるように』ということが書いてあるだけだった。 「臭いだのなんだのと言われんといいんだがなぁ」  だんだんと近づいて来る王城を眺めながら、苦笑交じりに零す。海戦は王も何度か経験しているし、帰港したばかりの船乗りがどういう状況なのかは承知しているだろうから、そのことで馬鹿にされることはないと願いたいのだが。  久しぶりの波揺れ以外の振動を全身に感じながら、ほんの少しだけ微睡む。詳しい内容が書かれていないからこそ、あの異母兄がなにを言ってくるつもりなのかわからなくて、逆に恐ろしい。それに備える為に少しでも体力を回復しておきたい。  対面に座っているジョージはそんな主人のことをわかっているのか、静かに控えていた。  浅く意識が沈み込んだところで、車輪から伝わる振動が僅かに変わる。王城に近づいて来た証拠だ。 「顔ぐらい洗いたかったな」  潮風を浴び続けて固まっている髪を撫で上げながら、欠伸を噛み殺す。ジョージは足許にあった籠を持ち上げると、ポットとタオルを差し出した。 「絞ったもので拭われますか?」 「……気が利いて嬉しいよ。だが、もう少し早く渡して欲しかったな」  馬車に乗ったときにくれればよかったのに、と不満を漏らすが、ジョージは聞き流しながら器用にタオルを湿らせ、手渡してきた。受け取ったタオルは温かい。有難かった。  王城の外門の鉄扉を潜るのを見ながら顔を拭うと、タオルは埃と垢ですぐに汚れてしまう。やはり風呂に入りたかったな、とうんざりする。 「このまま戻るか?」 「お時間がかかるようでしたら、一度戻りますが」 「王陛下の用件がわからんからな……なんとも言えんが」 「では、このまま先に戻って、荷解きをしておきます。港から届く頃合いでしょう」 「助かる。俺は馬を借りて戻るから、迎えは気にしなくていい」  車寄せに停まると同時に、控えていた衛兵の手によって扉が開かれる。エリックはジョージに別れを告げて降りると、案内を乞う前に通い慣れた王の執務室へと向かった。  王の執務室へ着くと、控えていた侍従がすぐに中へと取り次いでくれる。 「お帰り、エル坊」  入室が許可されると、書類仕事をしていた国王アーネストが微笑んで迎えてくれた。  幼い頃からの呼び名を口にされ、思わず口許が引き攣った。 「随分遠くまで行っていたみたいだな」  サインを終えた書面を裁可済みの山に片づけながら、入口のところで姿勢を正している異母弟を手招きする。 「時間がかかり、申し訳ありませんでした」 「中間報告書は見たよ。足が速い連中だったんだって? お前のレディ・エスター号でも追いつけないとはな」 「エスターの足は速いですが、他はそうでもないので。いくら三隻の海賊船とはいえ、エスター一隻での深追いは危険ですし、仕方がなかったのです」  当初の予定では、長くても十日あれば拿捕もしくは壊滅させられると計算していたのだが、海賊達にのらりくらりと海上を逃げ回られ、予想より遥かに手間取る追い駆けっこに発展してしまったのだ。お陰でこちらの士気は下がりまくるし、散々だった。 「指揮官としては当然の判断だな。我が異母弟は本当に優秀で嬉しい限りだ」 「詳しい報告は明日の朝には上げられます。少しお待ち頂ければ、と……」  屋敷に戻らず、王宮の執務室で仕上げてしまおうか、と頭の片隅で考える。早く風呂に入って揺れない寝台でひと眠りしたいが、こちらの方が仕事が捗る面もある。  うんうん、と笑顔で頷いていたアーネストは、ところで、と唐突に話題を変えた。 「お前、身を固めろ」  一瞬なにを言われているのかわからなかった。  たっぷり時間を置いたあと、眉間に皺を刻んで首を傾げる。 「聞こえなかったか?」  大きな反応のない異母弟の様子に、アーネストは不思議そうに尋ねる。 「いや、聞こえていますけど……唐突になにを言っているんですか?」  まったく以て理解不能だ。昔から兄弟だけのときは突拍子もない言動をする長兄だったが、今は一応、王と臣下として対面しているのだ。そういう場面で公私混同する人ではないのだが。  呆れつつも真意を探っていると、アーネストはにこにこと微笑んだまま立ち上がった。 「縁談が来ているんだ。結構いい縁だぞ」 「……俺宛てに、ですか?」 「というより、我が国宛て、だな」  では相手は国外の姫か令嬢か。  王族の端くれとして、自分の結婚には政略的なものが絡むことは理解しているつもりだが、なかなかに突然の話だ。予想もしていなかった。  来い、と隣室の応接間へ招かれる。そのついでに、控えていた侍従に茶の支度を頼んでいる。これは話が長引きそうだ。 「お相手はヴァンメール公国だ。海軍のお前ならよく知っているだろう?」 「ええ、まあ」  大陸を挟んで南方海域にある小さな島国ヴァンメールは、穏やかな気候と鉱石の輸出が有名で、人魚伝説も残る不思議な国だ。  ブライトヘイルとヴァンメールは規模は違えど同じ島国であり、海洋国家である為、交流は昔からあった。五十年ほど前にブライトヘイルの公爵令嬢が嫁いだことで、同盟国としても親交は深い。その国からの縁談だという。  交易を始めてから何十年も経つが、関係は非常に良好だ。今更縁談などとはいったいどういった意図だろうか。 「俺は国王で可愛い妻もいるし、四つになる天使のような娘もいる。クラウディオは一昨年結婚したし、兄弟の中で独り身なのはお前だけだ」 「そうですね」  王族に近く連なる血筋の男子だと、エリックの一つ上と三つ下の従兄弟達がいたが、二人とも今年の初めに結婚している。適齢期の男子で独身となると今現在はエリックしかいないのは事実だ。 「お相手は、マリー・ミシェット公孫殿下だ」  告げられた名前に思わず双眸を瞠る。 「マリー?」 「そう、マリーだ」  聞き返してみても、聞き間違いではなかったらしい。  ヴァンメール公国には内外に知られたある慣習がある。国主である大公位を継ぐのは男女問わず第一子であり、継承権一位の男児にはジュリアン、女児にはマリーの名を与える、というものだ。そして、継承権は生まれの順番如何に関わらず、長男長女で一位と二位となり、次男次女以下の兄弟はその下になるという。また、長子に子供があればその子が第二位となり、兄弟達は更にその下へと位置づけられる。  つまり、マリーの名を持つというこの縁談の相手は、かなり上位の継承権を持つ姫君ということになる。  次期大公を妻にするなど出来ないに決まっている。そうなると、エリックが婿に行くことになるだろう。立場的にいずれ政略結婚もあるとは思っていたが、自分が国外に出ることはあまり考えていなかった。
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