宴への招待(3)

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宴への招待(3)

「エリック様」  食堂を出てからエリックを呼び止めるが、潮騒と宴会の喧騒で声が届かなかったのか、先を行くエリックの足が止まることはなかった。少し脚が痛んだが、ミシェットは追い駆けて走り出した。  それにしても速い。いつもはミシェットに合わせて随分ゆっくりと歩いてくれていることに気づく。 「エリックさ――あっ!」  追いつくのに一生懸命になってしまい、足許にまで注意がいかなかった。縺れさせて躓いてしまう。  その音にさすがに気づいたのか、エリックがようやく足を止めて振り返った。 「ミシェット……どうして出て来たんです」  すぐに戻って来て抱え起こしてくれる。すみません、と謝るが、転んでしまったことが恥ずかしくて顔が上げられない。 「エドガーに食事を渡したらすぐに戻りますから、食堂にいてください」 「でも……」  一緒にいたいと言ったら、我儘だと呆れられてしまうだろうか。  宴会に参加していた乗組員は皆悪い人ではないし、ミシェットに好意を持って接してくれているのもわかっている。けれど、まだ大勢の男の人の中にいることに慣れてはいないので緊張してしまい、ひとりでいることが不安になるのだ。  ふう、と小さな溜め息を零すと、エリックは「これ持ってください」とミシェットに差し入れの皿を渡した。  言われるままに受け取り、落とさないようにしっかりと両手で持つと、いつものように抱え上げられる。 「一緒に行きましょうか」 「……はいっ!」  思わず力いっぱい頷くと、エリックは微かに笑ってくれた。  よかった、とミシェットはホッとする。食堂を出て行くときのエリックは、なんだか怒っているような気がしていたのだ。笑ってくれてよかった。 「脚は痛くないですか?」 「あ、大丈夫で……いいえ、ちょこっと痛みます。ごめんなさい」  心配させたくはないが嘘をつくのもよくないと思い、慌てて言い直すと、エリックは怪訝そうな顔をした。 「なにを謝るんです? 今日は無茶をさせましたから、痛んで当然です。いつも飲んでいた薬湯はどういうものですか?」 「ばあやが用意してくれていたので、よくわからないです。たぶん生薬(ハーブ)だと思うんですけど……」 「生薬か……」  薬湯の予備を持ってはいないだろうと思っていたが、案の定だった。ニーナだけが煎じられるものを飲ませていたのだろう。  恐らくミシェットが幼い為に、あまり効き目の強くないハーブ類を鎮痛薬として与えていたのだと思われる。船に置いてあるものだと強すぎるかも知れない。  怪我をしたときの治療などには、麻酔の代わりに葡萄地酒(ブランデー)糖蜜酒(ラム)を飲むことがあるが、まさかまだ子供のミシェットにそんなものを飲ませるわけにはいかない。痛みを取り除くどころか、逆に身体を壊すに決まっている。  なにが適切だろうか、と考えているうちに甲板へと出て来たので、ひとり孤独に船の針路を守っているエドガーの許へ赴く。 「――…おっ、艦長。宴会はどうしたんですか?」  いつものように明るい笑顔を向けながら舵輪を握っているので、ミシェットを下ろし、皿を渡すように背中を押し出す。  エドガーには何度か会って話をしているので慣れてきているのか、嫌がりもせずに近づいて行き、はい、と料理を差し出した。 「ああ、これは奥方様! わざわざありがとうございます」  エドガーは嬉しそうに笑って皿を受け取ろうとするが、操舵をどうしようかと一瞬考えたらしく、手許を見遣った。 「替わろう。そこらで食ってしまえ」 「すみません」  恐縮した態で操船を替わると、いつも休憩に使っている木箱に腰を下ろした。その横を少し空け、ミシェットにも座るように手招きしてくれる。遠慮なく座らせてもらうことにする。  ミシェットは舵を取るエリックを物珍しげに見つめ、少し楽しくなった。 「エリック様はお船を動かすことも出来るのですね」 「艦長は一通りお出来になりますよ。操舵手と航海士が倒れても問題なく航行出来ます」  へえ、と驚いて見ていると、エリックは肩を竦める。 「見よう見真似で齧っているのと、本職にしているのを一緒にするなよ。俺が航海士になったら一日で遭難するし、操舵手やったら座礁する」  この口振りだと、航海士や操舵手だけでなく、水夫やもしかすると料理人をやらせても、なんとなく出来てしまうのではないだろうか。またエリックの新しい一面が見れたような気がして嬉しくなる。 「ところでミシェット。歩いても平気そうなら、エドガーに温かいスープを持って来てやって欲しいのですが」  ここは冷えるから、と言われ、確かに夜風が冷たいと思い、頷いて立ち上がる。  大丈夫です、十分です、とエドガーが引き留めようとするが、寒くて風邪をひかれても大変だろうと思い、食堂へ引き返した。みんなはまだ盛り上がっているのだろうか。 「……行っちまいましたねぇ」  指についたソースの汚れを舐め取りながら、エドガーが零す。ミシェットと同じ年頃の娘がいる彼は、殊更あの小さな姫君のことを気に入っている。 「ところで、艦長?」 「ん?」 「なにかご機嫌斜めのご様子ですが、なにかあったんですかい?」  窺うように尋ねると、エリックの眉間にスーッと皺が寄って行く。 「……わかるか?」 「ええ、まあ。付き合いはそれなりに長くなってますからね」  エドガーとは、海軍予備隊入隊後に初めて配属された船で出会ったので、彼是九年ほどの付き合いになる。因みにティムとは予備隊の同期入隊だった上に、その後の配属が重なっていたこともあり、それ以降ずっと一緒にいる。  親友と呼ぶのとはまた少し違う感じだが、お互いに家族の次くらいに理解し合っている存在だとは思っている。 「俺は、自分の心の狭さが嫌になる」  盛大な溜め息を零しながら、自分の胸の内を吐露する。  宴会場での経緯を掻い摘んで聞いたエドガーは、声を立てて笑った。自分の狭量さにうんざりしかけていた艦長は、なにがおかしいんだ、と突然笑い出した部下を睨みつける。 「いいんじゃないですか。自分の嫁で下世話な考えを持たれたら、誰だって腹立ちますって」 「そういうものか?」 「そりゃそうでしょうよ。俺だって嫌ですよ」 「俺はお前のところみたいに好きで好きで堪らなくて、追い駆け回して嫁にもらったわけじゃないからなぁ」  随分な言い方だが事実である。  エドガーの妻サムは、海軍宿舎の傍にある定食屋の娘だった。とびきりの美人ではなかったが、雀斑顔に浮かべる笑顔が明るく愛嬌のあるいい娘だったので、エドガーが一目惚れをしたのがきっかけだった。  定食屋に通うのをつき合わされたことを思い出し、エリックは笑う。 「半年通って結婚を申し込んでフラれ、めげずにひと月毎に求婚し続け、一年経ってようやくお許しが出たんだっけな」  エドガーの一途さに根負けして結婚してくれたようなものだが、今ではすっかりおしどり夫婦として仲間内で有名だ。 「すぐに艦長もそうなりますよ」  どうだかな、と思っていると、ミシェットが戻って来た。  小さな手が大事そうに抱えて来た器を「どうぞ」と差し出す。エドガーは満面の笑みで受け取り、感謝の言葉を述べた。 「奥方様は、きっといい嫁さんになられますなぁ」  しみじみと呟くと、ミシェットははにかんで頷いた。
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