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船幽霊(1)
「艦長!」
楽しかった宴会の翌々日の朝、エリックを呼ぶ声でミシェットは目を覚ました。
昨日一日雨が降っていたので冷えた空気が残っているのか、妙に肌寒い。ぶるりと身を震わせて、毛布の上に掛けていたエリックの外套を引き寄せた。
背中に留め紐があるドレスはひとりで脱ぎ着が出来ないので、ここのところ着たまま眠ってしまっている。夏場程暑くはないので汚れた感じはしていないが、そろそろ下着は新しいものに替えたいな、と考えながら船室を出た。
上からも下からも、バタバタ走り回る音や、なにか叫んでいる怒号のようなものが聞こえてくる。なにかあったのだろうか、と甲板へ出ると、水夫達のみならず士官達も慌ただしく動き回っていた。
観測所や舵のある後甲板に登って行くと、そこにエリックがいた。
声をかけようと思ったが、望遠鏡を覗き込んでいる表情は険しく、口許は舌打ちでもしそうな雰囲気だったので、言葉が出て来なくなる。
「五隻か……」
やはり別働隊がいたか、と零れ聞こえた呟きに、ハッとする。
二日前まで尾行していた不審船は、クラウディオ達が乗り換えた定期船を追って消えて行き、それから何事もなく静かだった。
レヴェラント島まであと半日かからないという距離に来て、また船が後方から近づいて来ているようだ。別の追っ手があっても船影が見つかりにくくする為に、大回りに遠い外洋を進んでいたのが裏目に出た。
もうすぐブライトヘイル王国の領海に入る。そこを越えてもついて来るようだったら、領海侵犯として、国際協定の法の下に攻撃を加えることが出来る。
しかし、さすがに五対一ではかなり分が悪い。増援を手配してくれる手筈のクラウディオはもう帰国しただろうが、こちらにはまだ向かっていないだろう。このまま交戦することはなるべく避けたかった。
「風向きはどうだ?」
「少し西寄りですが上々です」
観測所に立つティムに声をかけると、彼は少し緊張した面持ちで答えた。
「よし。商船規定旗を下ろし、軍旗を掲げろ! 西北西方面に舵を取れ!」
「取舵了解!」
艦長の指示に操舵手が応じ、針路を変える為に舵輪を回す。同時に副官が「帆を下ろせぇ!」と水夫達に向かって声を張り上げた。
指示を受けた水夫達がそれぞれの行動に移り、甲板は俄かに騒がしくなる。
ミシェットは出て行くことも出来ず、後甲板に上がる階段の陰で小さくなった。
「ティム、雲が来てる。あれは雷雲だろう」
「はい。そこも計算に入れてます」
「レヴェラントまで間に合うか?」
「風向きが変わらなければ、なんとか」
「ここらはこの時期荒れるからなぁ」
エドガーがうんざりしたように零す。昨日の雨は風を伴わなかったので問題なかったが、今日は逆に風が強い。ここに雨が加わると厄介だ。ほんの少しでも嵐に変わり、この頑丈な船体でも大きく揺すられる。
今回の航海中、天気が大きく崩れることはなかったが、冬に近い時期から北海の沖は時化ることで有名なのだ。少しの天気の崩れが航行に大きく影響する。
大陸の方ではこの冬場の時化を『北海の竜』と呼び、倦厭していた。
しかし、長年その北海で覇権を手にしてきたブライトヘイル王国海軍の操舵手は、そんな時化ぐらいものともしない。面倒だなんだと愚痴を垂れていても、いざとなったら何食わぬ顔で切り抜けるのだ。
「あれ、お嬢さん?」
階段の陰で縮こまっていると声をかけられた。確か彼は、副操舵手のベンだ。
「どうしたんですか? あ、朝飯食べました?」
食事は士官も水夫も仕事をしながら交替で摂っている。ベンも食事を終え、エドガーと交替する為に甲板に上がって来たところだった。
いらない、とミシェットは首を振った。食べてはいないがお腹は減っていない。
たくさん食べないと大きくなれないんだぞ、とベンが諭していると、気づいたエリックが上から降りて来た。
「ミシェット……どうしたんですか?」
「エリック様」
先程までの恐い顔ではなく、いつもの様子のエリックにホッとする。
「ここは少しバタついているので危ないですよ」
船室に戻るように言ってくるので、ミシェットは不安げに見つめ返してしょんぼりと下を向いた。
漏れ聞こえてきた話の内容から、船員達に緊張が走っていることはわかっている。そんな場所にいては邪魔になるし、迷惑だということもわかっているのだが、あの広い艦長室にひとりでいるのもなんだか落ち着かない。
ミシェットが上手く自分の気持ちを口に出来ずにもじもじしていると、エリックは少し考え込み、ミシェットを立たせた。
「脚は痛みますか?」
「いいえ、大丈夫です。貰ったお薬が効いています」
船医に相談してみた結果、片頭痛持ちのティムの常備薬を分けてもらったのだ。念の為、一回分を半量にして飲ませてみたのだが、丁度よかったらしい。
「今日は多分、一緒にいることは出来ません。それでもいいなら上にいますか?」
その提案に申し訳ない気持ちになった。けれど、エリックが見える位置にいれることは嬉しかった。
エリックはいつもの外套にきちんと袖を通させ、指先が見えるくらいまで捲り上げてやると、裾も引っ張り上げて腰のあたりで結んでやる。これなら引きずることはない。
こっちへ、と手を引いてエドガーの傍に行くと、傍らの木箱に座らせる。ここなら他の場所よりは比較的邪魔にはならない。
「今日は風が強いのでよく揺れます。海に放り出されないように気をつけてください」
頷くミシェットの腰に綱を括りつけている。命綱だろうか。
体重の軽いミシェットなら、簡単に海に放り出されてしまいそうだ。それくらいに今日の海は波が高い。
「ここをこう引けば解けますから、用足しに行くときは自分で行けますね?」
「大丈夫です。我儘言ってごめんなさい」
「これくらいなら気にすることないですよ。あと、これ。よかったら持っていてください」
林檎をひとつ懐から取り出し、しっかりと握らせる。水分補給と軽食の替わりだろう。
礼を言ったミシェットの頭を撫でると、エリックはメインマストの下で指示を飛ばしているコレットのところへ行ってしまう。
「酔ったらそこのバケツ使ってくださいね」
エドガーと舵取りを交替したベンが木箱の脇を示す。だいぶ船の揺れには慣れてきたのだが、今日は今回の航海中で一番波が高いようなので、もしかすると具合が悪くなるかも知れないということだ。
礼を言って頷き、甲板の上の人々に目を遣る。陽気な水夫達はいつもよりもきびきびした動きで甲板を走り回り、担当の仕事を手際よくこなしていっている。今日は楽しげな船歌を歌っていないところからも緊張感が伝わって来た。
マストを見上げると、いつもより多くの檣楼員が上がり、指示を受けて帆の上げ下ろしを行っていた。
大きく風を孕んだ帆は力強くレディ・エスター号を推し進める。海面から随分高い位置にある後甲板にいるというのに、時折水飛沫が頬にかかった。
この船は足の速さが自慢だとエリックが言っていた。強い風を受けて滑るように海上を走る今がもしかすると最大船速なのかも知れない。確かに速い。
エリックの姿を捜すと、既にコレットの許を離れ、下に降りて行くところだった。忙しそうである。
姿が見えないことは不安だったが、今日はついて回るわけにはいかない。ミシェットがいるだけで迷惑かも知れないのに、これ以上仕事の邪魔はしたくなかった。
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