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船幽霊(2)
もらった林檎を眺め、袖口できゅっきゅっと磨いてみる。真っ赤な果実は美味しそうに艶めき、ミシェットに微笑みかけているようだった。
こんなところを乳母が見たら怒られそうだが、今はいないし、と自分自身に言い訳しつつ、乗組員達がよくしているように丸のままの林檎に直接齧りついた。こんな食べ方をしたのは初めてでどうすればいいのか迷ったが、噛み切って咀嚼する。先日の宴会でもらったものより酸味が強かったが、とても美味しい。
黙って林檎を齧っていると、ベンがにこにことこちらを眺めていることに気づいた。
ここの乗組員達はみんな人がいい。ミシェットのすることに嫌な顔をする人は誰もいないし、危ないことがあれば注意もしてくれるし、みんなが見守るように眺めてくれている。
「ラクレア艦長は本当にいい上官ですよ」
ミシェットが退屈していると思ったのか、元々話好きな人なのか、ベンが話し出した。
彼が前に乗船していたのは、グリンフォード侯爵という男が提督を務める艦隊の旗艦船だった。その提督は指揮官としては優れていたらしいのだが、下士官や水夫に対しての扱いが酷く、乗組員達はうんざりとしていたという。特に面倒だったのが、朝礼に話される提督からの訓戒で、それが自分の過去の自慢話ばかりだった。ブライトヘイルはここ三十年ほどは大きな戦もなく、乗組員のほとんどが壮絶な海戦の経験がない者が多かったので、その話を聞くのは本当に苦痛だったのだ。
老齢のグリンフォード提督は海賊退治を嫌っていて、そんなものは新米指揮官にでもやらせておけ、という持論の人だった。自分のような武勲を持つ者は、海賊などという小物は相手にしない、ということだ。
そこで指揮官としての頭角を現したのが、エリックだった。
グリンフォード提督はそれが気に入らなくて、今でもエリックと対立しているのは有名なのだという。
気に入らない下士官や水夫はすぐにクビにし、役立たずはくれてやる、とエリックの下へ押しつけていたのだという。ベンもそうしてクビを切られたひとりだったが、結果的にはそれがよかった。
エリックはまだ若かったが勤勉で、王弟であることを鼻にかけることもなく、下級水夫にまで気を配ってくれるような気さくな人で、同じ貴族でもここまで違うものか、と驚愕したものだった。
そんないい人だから、政略結婚で生まれた縁でも、きっとあなたを大切にしてくれるだろう――ベンはそう言いたいようだった。
部下達から慕われている人だとは思っていたが、右腕的存在のコレット以外からはっきりと言葉にして聞かされたのは初めてだ。我がことのように嬉しくなり、笑顔で頷く。
丁度そのとき、船体が大きく上下した。大きな波に乗り上げたらしい。
あっ、と思ったときには手の中から食べかけの林檎が飛び出し、ぽーんと勢いよく背後に飛んで行った。
慌てて振り返り、縁をちゃんと掴んで波間へ目を向ける。真っ青な海面に真っ赤な林檎はよく映え、何処にあるのかすぐにわかった。
「どうしました?」
唐突に海の方へ振り返ったミシェットに、ベンが驚いたように声をかける。木箱の上に膝立ちになったので、そのまま身を乗り出すのではないかと思ったのだ。
「林檎が落ちてしまいました。まだ半分も食べてなかったのに……」
折角エリックからもらったのに、と悲しげに思っていると、それは残念だった、とベンが笑った。
どんどん離れて行く赤にしょんぼりと肩を落としていると、そのすぐ傍に女の人が顔を出したのが見えた。
驚いて目を擦り、もう一度目を凝らして見てみるが、やはりそこには女の人の顔があった。見間違いではなかったらしい。
こんな大海原のど真ん中でいったいどうしたというのだろうか。言葉もなくその女の人を見ていると、彼女は白い指先を伸ばし、食べかけの林檎を掬い上げた。そうして林檎の香りを嗅ぐように顔に近づけると、うっとりと微笑んだのだ。
彼女は凝視しているミシェットの視線に気づいたのか、こちらを見てにっこりと微笑み手を振ったかと思うと、とぷりと海中に姿を消した。
「お嬢さん? ちゃんと座ってないと、今度はお嬢さんが飛び出しますよ」
はしたなくもあんぐりと口を開けて女の人が消えたあたりを凝視していると、身を乗り出して来てさすがに危ないと感じたのか、窘めるようにベンが言ってきた。
ミシェットは今自分が目にしたものが信じられないまま、言われたように座り直す。
「……そんなに林檎を落としたのが悲しいんですか?」
様子のおかしいミシェットに、ベンは怪訝そうな目を向ける。林檎など貯蔵庫に行けばまだまだあるのだから、誰かに取って来させようか、と尋ねるが、ミシェットは茫然とした顔のままゆるく首を振った。
「どうしたんです?」
「いいえ。あの、今……海に、女の人が……」
自分でも信じられない気持ちのまま、たった今見たことを口にすると、ベンは思いっきり眉間に皺を刻んだ。
「止してくださいよ。船幽霊でも見たって言うんですか?」
美しい容姿と歌声で船乗りを惑わし、船を沈めてしまうという伝説の船幽霊を見たとは、なんとも不吉な話ではないか。
やはり見間違いだったのだろうか、と思うが、それにしてはやけにはっきりとあの姿が目に焼きついている。
「ベン、針路ずれてる! 面舵!」
羅針盤を掲げたティムが後ろから怒鳴りつけた。ベンは慌てて舵を切る。
気を遣ってくれていたベンの仕事の邪魔をしてしまったようだ。ミシェットは口を噤み、膝を抱えて木箱の上で小さくなった。
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