船幽霊(3)

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船幽霊(3)

 しょんぼりしていると、エリックがエドガーと共に上がって来た。  俯いて悲しげな様子の幼い妻の姿に、エリックは怪訝そうな顔をした。ベンは慌てて「俺なにもしてないです!」と言った。 「お嬢さん、船幽霊見たって言うんですよ……」 「え?」 「そりゃまた……縁起でもねぇな」  不揃いな髭の生えた顎を撫で摩り、エドガーが苦笑した。  違うんです、とミシェットはエリックに訴えた。 「林檎を落としてしまって。そうしたら、海の中から女の人が出て来て……私の林檎を拾って、また海に消えてしまったんです」 「林檎を?」 「はい。にこにこ顔で」  食べかけの上に落としてしまったものだというのに、なんだか嬉しそうな笑顔だった。林檎が好きな人だったんだろうか、などと見当外れなことが思い浮かぶ。  エリックはエドガーと顔を見合わせ、お互いに懐を探った。出て来たのは林檎と蜜柑だった。小腹が空いたとき用に貯蔵庫からくすねて来たのだ。 「……考えることは同じか」 「はははっ。そのようですねぇ」  二人はそれをミシェットに渡した。  様子を窺っていたティムやコレットも興味を惹かれたのか、ミシェット達のまわりに集まって来た。舵を握るベンだけが後ろの方で伸び上り、気にしている。 「取り敢えず、海に投げてみてください」  海の方を指差されたので、ミシェットは言われた通りにまずは林檎を投げ込み、それから蜜柑も投げ込んだ。進むレディ・エスター号の立てる白波に押され、赤と橙は少し遠くに流される。  なにも変化のないまま遠ざかって行く二点を見送っていると、波間に紛れて白い影がすっと立ち上がり、次の瞬間には赤い点が消えていた。全員が自分の目を疑った次の瞬間、また白い影が海面に現れる。ぎゃあッ、とコレットが悲鳴を上げた。  ふたつの果物は見える範囲から消えていた。  望遠鏡で行方を追っていたらしいコレットは、悲鳴を上げたときの口のまま固まり、果物達が消えたあたりを見続けている。 「……マーティン・コレット大尉?」  微動だにしないコレットに、エリックが改まった口調で呼びかける。コレットは錆びついた発条仕掛けのようにぎこちなく振り向くと、あうあう、と言葉にならない声を零しながら口を開閉させた。 「――…うっ、……腕……でし、た……」 「腕?」  訝しげに問い返すと、はい、とコレットはやはりぎこちなく首を上下させる。 「白い腕、が……海の中から……」  あれはほっそりとした女の腕だった、と今にも吐きそうな青い顔で言うので、全員で思わず顔を見合わせる。  見間違いではなかったのだ、とミシェットは安心すると同時に、ではあの女性はいったいなんなのか、という新しい疑問が頭をもたげた。 「本当に船幽霊なら、後ろの連中沈めて欲しいですね」  舵を取りながら話を聞いていたベンが、表情を青褪めさせながらそう零した。果物をやったのだから、その謝礼代わりにやってしまってくれはしないだろうか、と軽口を叩く。  まったくその通りだ、と皆で応じたとき、ドドン、と音が響いた。  耳馴染みのその音に乗組員全員が身構えた瞬間、遥か後方で二つの水柱が上がる。きゃあ、とミシェットが驚いて悲鳴を上げ、そんな彼女を庇うようにエリックが抱き締めた。 「会敵用意! 砲門開け!」  エリックが声を張り上げると、すぐにコレットが「伝令!」と続いて声を張り上げた。甲板のあちこちで艦長の命令を復唱し始める。 「ベン、替われ!」  言うや否や奪い取るように舵輪に取りつき、エドガーが大きく舵を切った。  後ろの五隻の船とはまだ距離は十分すぎるほどにある。まったく掠りもしない距離で攻撃してくるなど、威嚇にしても中途半端ではないか。  応戦準備をしつつ、増援と合流するまでこのまま逃げ切れれば幸いだ。 「艦長! 旗が上がりました!」  気象観測と同時に後方の船も望遠鏡の視界に収めたティムが声を張り上げた。先程までは先日の不審船同様、所属を表す旗をなにも掲げていなかったのだ。  エリックも望遠鏡を取り出し、船団を見遣った。 「――…こいつは、驚いたな……」  思ってもみなかった旗印を見つけ、エリックの声は不謹慎にも弾んだ。 「海賊ゴッサムじゃないか」  マルス王国と隣のウルシア王国、向かいのハイレン共和国近海を荒らし回り、南海域では有名な大海賊である。  被害に遭った商船は数知れず、討伐に赴いた各国の海軍船も何隻も沈められ、誰も手出し出来ないまま二十年以上が過ぎているという海賊団は、船長のエイドリアン・ゴッサムに高額な賞金が懸けられている。  南海を拠点にしていたので北海側のブライトヘイル王国には特に関係がなかったが、それでも名前を知っているくらいの存在だ。そんな奴に目をつけられたとは、光栄と喜ぶべきか、不運と嘆くべきか。  では先程の威嚇にもならない砲撃は、挨拶か挑発なのだろう。 (面白いじゃないか)  喧嘩っ早い性質でもなく、そこまで好戦的な性格をしているわけでもないが、強敵との対峙には心が高揚する。  しかし、さすがにそんな大海賊相手に一隻だけで交戦するほど、エリックは短絡的でも愚かでもない。今はとにかく逃げ切ることが最優先事項だ。 「檣楼! レヴェラントは見えたか!?」  メインマストの一番上にいる檣楼員に向かって声を張り上げると、いいえ、という答えが返る。目的地まではまだ少し距離があるらしい。  ゴッサムから二弾目の砲撃はない。やはりあれは軽い挨拶代わりだったのだろう。  では、こちらも少し挑発してやろうではないか、とエリックは声を張り上げる。 「部隊旗を掲げろ!」  国際規定で決められている掲揚旗のうち、軍船が掲げるように定められているのは所属を表す国旗及び軍旗、そして、旗艦が掲げる提督旗か部隊旗だ。  指示を受けた檣楼員が甲板から部隊旗を受け取り、軍旗の下に掲げた。  高く澄んだ晴天に翻るのは、鮮やかな緋色に黒々と描かれた猛る竜と貫く剣の紋。竜は荒れる北海を表し、剣は騎士王が興したブライトヘイルでは王の証である。  現在のブライトヘイル王国海軍船に於いて剣の紋を使うことが許されているのは、国王アーネストの所有するクイーン・ステラ号と、王弟エリックの乗船レディ・エスター号の二隻のみ。たとえ海賊と言えども、船乗りでそれを知らない者はいない。  王族らしさどころか貴族らしささえも持ち合わせていないようなエリックだが、挑発を受けて黙っているほどに矜持は低くない。  後方の船団を睨みつけながら獰猛に笑うエリックの姿に、ミシェットは胸の奥がぎゅうっとなるのを感じた。 「誰に喧嘩を売っているのか、知れ。ゴッサム」
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