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海からの迎え(2)
ミシェットは震えていた。
涙に歪む視界に、はらはらと金糸の髪が落ちて来る。
「あらあらぁ。駄目じゃないの、ミシェット。せっかく痛くないようにしてあげようとしていたのに」
頭を撃ち抜けば一瞬だったのに、とアイリーンは嘆かわしげに言った。
その言葉の通り、ほんの少し前までミシェットの可愛らしい額は、アイリーンの構えた短銃の銃口に狙われていた。彼女の指が撃鉄にかかり、引き金を引いた瞬間、身動き出来なかったミシェットをティムが渾身の力で引き倒したのだ。お陰で髪の毛が数本撃たれただけで済んだ。
アイリーンは漕ぎ手を務める従者に舟を進めるように命じ、自分は短銃に火薬と弾を込める作業を始めた。
「叔母様……叔母様、どうして……」
血が止まらないティムの傷口を押さえながら、ミシェットはアイリーンに濡れた目を向けた。
嫌われているのは知っていた。憎んでさえいるのだろう。けれど、そんな思いを抱かれるようなことを、彼女にしてしまった覚えはない。
アイリーンは弾込めの終わった短銃を銃帯に戻し、もう一挺の銃にも弾を込め始める。勢いは落ち着いたとはいえ、雨はまだ降っているので、火薬を濡らさないように慎重に。
「どうして? ……そうね。あなたはなにも知らないんですものね」
小舟同士にはまだ少し距離があるし、軽い時間潰しのつもりだろうか、アイリーンは笑みを浮かべた。
「昔――そうね、十二年くらい前のことかしら。私もお姉様も、まだ十七のときだったわ」
花も恥じらう年頃の双子の公女達は、ある夜会の折り、アンリ・コトーという青年と出会った。
成人したのだから、今後の為にももう少し社交を学ぶべきだ、と両親と共に夜会に参加したアンリは、美形というほどには整った容貌ではなかったが、精悍さの中に少し幼さが残る笑顔が魅力的な青年だった。貴族ではないが古い家柄の商人の息子で、彼の両親も大公と親しく、とてもいい人達だった。
若かったアイリーンは、ふたつ年上のその青年に恋をした。
女性から積極的に言い寄るのははしたないと思われるだろうが、アイリーンは気にしなかった。公位を継がない自分には政略結婚など無用のものだったし、結婚相手は自由にしていいと父からも言われていた。だから、アイリーンはアンリを夫に迎えたいと思い、彼にもそのように伝えていた。
しかし、アンリが選んだのは、姉のマリー・ソフィアだった。
宮殿の花園にある美しい四阿の前で、姉の前に膝を突いて「無礼を承知で求婚します」と告げた彼の姿を見たアイリーンは、絶望に囚われた。
頬を染め、綺麗な若葉色の瞳を潤ませた姉は、本当に美しかった。
その美しい姉の薔薇色に染まる愛らしい唇が「はい」と、僅かに震えながらうっとりと呟いた声が、今でもはっきりと思い出せる。あの声を夢に聞き、何度魘されて目を覚ましたことか。
「あなたはね、マリー・ミシェット。大好きで大嫌いなアンリ・コトーと、生まれたときから私のものをすべて奪う憎らしいソフィアお姉様の子供なの」
アイリーンからの好意を無視したアンリが許せなかった。
アイリーンの気持ちを知っていながら求婚を受けたマリー・ソフィアも、二人の結婚を許した父も、絶対に許せなかった。
「あなたはこの世に生まれたときから罪深いのよ、マリー・ミシェット!」
過去の記憶を思い出した所為で手元が狂い、砲身に入れる筈だった弾が零れ落ちる。それに気づいたアイリーンは静かに深い呼吸を繰り返し、心を鎮めていく。
舟の舳先がごつんとミシェット達の舟にぶつかり、僅かに揺らした。
「だからね、ミシェット。あなたは死ななくてはいけないの」
「叔母様……」
「あなたのお母様にすべてを奪われたのだから、今度は私が奪う番よ。お姉様が受け継ぐ筈だった大公位も、美しいヴァンメールも、みんな私の物にするの」
ミシェットは嫌々と首を振った。けれど、アイリーンは微笑みながら銃口を向ける。この距離なら外しようもない。
「お父様とお母様によろしくね。私がどれだけ二人を恨んでいたか、伝えてちょうだい」
さようなら、と紅い唇が優しく微笑んだ。そんな笑みを向けてくれたのは初めてのことで、それが余計に悲しかった。
入り江に銃声が響いた。
しかし、ミシェットにはなんの痛みもない。勢いで瞑っていた目を恐る恐る開けると、アイリーンが上半身を捻るようにして、舟から落ちて行く姿が目の前にあった。
「ミシェット!」
叔母が落水した音に被さるように、ミシェットを呼ぶ声がした。
ハッとして振り向くと、そこには想像通りの人の姿があったので、ミシェットは泣きそうになる。
「よくやった、コレット大尉! 褒賞は弾むぞ」
「艦長はもう少し射撃の訓練をした方がいいと思いますよ」
役目を終えた銃を降ろしたコレットは、拳闘の腕ばかり上げて行く筋力馬鹿の上官からの讃辞に、溜め息交じりに零した。
上手く当たってよかった。射撃の腕は海軍の中ではいい方なのだが、精密さを求められるのは苦手なのだ。
アイリーンの従者達は落ちた公女を救い出そうとしているが、手早くとはなかなかいかないもののようで、なんとか舟に引き上げた頃には、エリック達の舟も相当近くにまで来ていた。
腕から止め処なく血を流しながらも、そんな怪我などよりもミシェットの命を奪うことの方が重要なようで、アイリーンの双眸は目の前の小さな姪の姿を捉えて離さない。
先程構えていた銃は海に落としてしまったので、腰に佩いていた短銃に手を伸ばすが、こちらもたった今水に浸かって使い物にならなくなったところだ。貧民街の女のような品のない舌打ちがアイリーンの口許を歪める。
しかし、こんな程度で諦めがつくようなら、わざわざ国を出てまで追って来ない。
アイリーンは不安定な舟の底を蹴り、ミシェットへ飛びかかった。
小さなミシェットは悲鳴を上げることも出来ず、驚きに固まった表情のまま海の中へ突き飛ばされていた。
その勢いで小舟は転覆しそうになるが、中にいたティムがなんとか平衡を保ち、傾いたところを元に戻した。
「お嬢さん!」
入り江のだいぶ陸地寄りに来ているとはいえ、元々帆船の港代わりに使われていたような場所なので、水深はまだかなり深い。アイリーンでさえも頭の出ないほどのところなのだから、小さなミシェットが足などつく筈もない。
急げ、とエリックは漕ぎ手の水夫を急かす。水夫達もまた、あの可愛らしい少女が海に沈められたことに憤り、力の限り早く漕ぎ始めた。
二人が沈んだところが激しく波立っている。ミシェットが抵抗しているのだろう。
島国に育ったというのに、海に出たことがないと言っていたミシェットは、もしかすると泳げないのかも知れない――そんな考えに至ったエリックは、さっと青褪めた。
服を着たまま泳ぐのは慣れている者でもコツがいる。因りによって今のミシェットは、ドレスの他に外套と雨具まで着込んで、身体がかなり重たくなっている筈だ。その布が水を吸ってしまったら、たとえ泳げたとしても、あの小さな身体では浮き上がって来ることも困難かも知れない。
そのエリックの予感は的中していた。
ミシェットは押さえつけて来る叔母の腕から逃れようと必死に藻掻くが、手足がどんどん重たくなっていく。上に行きたいのに、下へ引きずり込まれるかのようだ。
どうしよう、助けて、と浮上出来ない恐怖にミシェットは焦った。その追い討ちをかけるように、アイリーンが鬼のような形相でミシェットの首を締めつけている。
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