海からの迎え(3)

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海からの迎え(3)

「ねえ」  誰かが囁いた。  海の中で喋れる筈もないというのに、耳許で話しかけられたかのように、やけにはっきりとした声だった。  その声はアイリーンにも聞こえていたようで、首を押さえつけていた手が緩む。  目の前には白い女の顔があった。 (あ……今朝の……?)  遠目に見たのではっきりとはしないが、ミシェットには不思議な確信があった。彼女は林檎を拾った不思議な女の人だ。 「あなた、マリーナね?」  白い女は確かにそう尋ねた。海の中ではっきりと唇を動かし、喋ったのだ。  驚いたアイリーンは止めていた息をガボッと吐き出してしまい、大量の気泡と化した酸素の中を慌てて水面へと浮き上がる。  押さえつけていた叔母の手がようやく離れたので、ミシェットも慌てて上がろうとするが、手脚が思ったように動かず、逆に下へ沈んで行ってしまう。焦っていると女の腕がそっとミシェットを支え、上へと連れて行ってくれた。 「ミシェット!」  途切れていた酸素を大量に吸い込んで咳込んでいると、エリックの心配そうな声が聞こえてくる。戻って来れた、と安堵しつつ目線を移動させると、自分を抱き留めている女の人と目が合った。  不思議な目をしていた。虹色に輝くような色合いでいて、硝子のように透明で澄んでいて、この世のものとは思えない瞳だった。 「久しぶりね、マリーナ。少し縮んだ?」  女の人はにっこりと微笑みながらミシェットにそう言った。その声は先程海の中で聞いたものと同じだった。 「――…誰?」  ミシェットがぼんやりと尋ねると、女の人はくすくすと笑う。 「リドウィニアよ。忘れちゃった?」 「知ら、な……い……」 「あら?」  リドウィニアと名乗った女の腕の中で、ミシェットはことりと意識を手放した。海中で藻掻いて疲れたし、暴れて水をたくさん飲んだことも小さな身体には負担だった。  相変わらず副官が止めるのも聞かずに、エリックは入り江へと飛び込み、急いでミシェットの元へ向かう。呆れたコレットが漕ぎ手達に追うように指示をした。泳ぐのも舟を漕ぐのも変わりないというのに。  アイリーンは小舟の縁に掴まりながら、怯えた目でリドウィニアの姿を凝視していた。 「なっ、なんなのよ、あなた……!」  誰何の声が上擦って震える。それは決してアイリーンが小心者だからではない。誰だって、こんな得体の知れない不気味な女が突然目の前に現れたら、恐ろしくなって震えてしまうことだろう。  リドウィニアは感情のこもらない不思議な虹色の瞳で、アイリーンをじっと見つめた。  二人が見つめ合っているところには、アイリーンの従者達も、コレット達も、張りつめた緊張感から誰もなにも言えない。固唾を呑むようにただ静かに二人の様子を窺うことしか出来なかった。  そこへエリックが泳ぎ着く。  不思議な女は、あろうことか一糸纏わぬ姿であり、水の中とはいえ真っ白な形よい乳房を晒していて、大変に目のやり場に困る姿だった。まったく気にした様子がないので余計に困ってしまう。  エリックはどうしようかと戸惑うが、そんな彼に気づいたリドウィニアがアイリーンから目を離し、こちらに笑顔を向けた。 「あら、エステル。どうしたの?」  彼女はエリックに向かい、まるで旧知の友のように声をかけて来た。  その親しげな様子に更に戸惑うと、彼女はミシェットをそっとこちらに押し遣って来る。 「マリーナを迎えに来たのね? 眠ってしまったみたいだから、連れて行ってあげて」  言われるままに気を失っているミシェットを受け取ると、リドウィニアは頷くようににっこりと微笑み、もう一度アイリーンの方へ向き直った。 「あなた、不思議ね。あなたからはマリーナとジュリオの匂いがするの。何故かしら?」 「な、なんのことよ……」 「あなたのことに決まっているじゃない。ねえ、みんな?」  リドウィニアが振り返って声をかけると、一人、また一人、と海中から女達が顔を覗かせた。その入り江にいた者達は皆驚愕に震え、息を呑んで言葉を失った。  女達は全部で十二人いた。  皆一様に真珠のように色が白く、その美しい肌を晒していても気にすることなく、淡い微笑みを浮かべてアイリーンのことを見つめていた。 「おかしいわね」 「そうね、おかしいわ」 「確かにマリーナの匂いがする」 「ジュリオの匂いもする」 「でも、真珠を持っていない」 「おかしいわ」 「おかしいわね」 「マリーナなら真珠を持っているのに」 「ジュリオも真珠を持っているのに」 「でも、この子は持っていない」 「じゃあ、この子はだぁれ?」  女達は次々に言葉を繋げていき、最後に首を傾げてアイリーンを見つめる。その一様に揃った動きに、ひっ、とアイリーンは息を呑んだ。  真珠、とエリックは呟く。彼女達の言う真珠とは、ヴァンメール公国の国宝『碧洋の真珠』のことだろうか。  女達はエリック達を押し遣り、ぐるりとアイリーンを取り囲んだ。その硝子のような不思議な瞳で凝視しながら。 「きっと、マリーナとジュリオの子供よ」 「ああ、きっとそうね」 「マリーナとジュリオの子供ね」 「お帰りなさい」 「お帰りなさい」 「待っていたわ」  女達はまた口々に言い、アイリーンへと手を伸ばした。  引き攣った表情で逃れようとするアイリーンの腕を取り、にこにこと揃って嬉しそうに笑っている。 「さあ、行きましょう。私達はあなたを歓迎するわ」  リドウィニアが微笑んで告げ、アイリーンの腕を引いた。いや、とアイリーンが呟く。 「なにするの! 離しなさい!」  必死に女達の腕を振りほどこうと身を捩っているが、女達はそれを聞き入れることなく、行きましょう、行きましょう、と口々に言ってアイリーンを連れ去ろうとする。彼女は恐怖から悲鳴を上げた。 「離しなさい! やめなさい!」 「公女様!」  従者達が悲鳴じみた声を上げて腕を伸ばすが、その指先が届かなかった先で、アイリーンは絶叫と共に海中へと消えた。  アイリーンの声が余韻を残して消えて行くと、しばらくして入り江には静寂が満ちる。  誰も身動きひとつ取れなかった。アイリーンが消えて行った先を言葉もなく見つめることしか出来なかった。  最初に動いたのはエリックだった。ミシェットを重たくしている雨具と外套を剥ぎ取り、コレット達の舟の方へ引いて行く。気を失ってくれているので楽だった。 「ティムが怪我をしているようだ。誰かあっちの舟に移ってくれ」  水夫達の手を借りてミシェットを舟に上げながら、ティムが身動き取れずにいることを伝える。きちんと確認したわけではないが、あの様子では自分で櫂を握ることは無理そうだ。  水夫達は持って来ていた毛布でミシェットを包むと、顔色は真っ青だがちゃんと呼吸をしていることを確認し、一様に安堵の表情を覗かせる。アイリーンに沈められた姿を見ているときは、皆が揃って生きた心地がしなかった。  ティムを救出に行く為にも早く上がれ、とコレットがエリックに手を差し出す。 「――…艦長っ!」  しかし、コレットの手を掴んだ筈のエリックの手から急に力が抜け、そのまますっぽ抜けて海中に戻ってしまう。慌てたコレットが身を乗り出してその袖を捕まえると小舟が傾き、今度は水夫達が慌ててコレットの腰を掴んで引き留めた。 「艦長! 艦長、しっかりしてください!」  呼びかけてもエリックの瞼は微かに震えるだけで開くことがない。やはり先程の乱戦時にゴッサムに殴られた影響だろうか。 「起きてくださいよ、艦長! あなた重いんだから、自力で上がってくれないと困るんですけど!」  コレットは沈もうとする上官の身体を必死に引っ張る。だが、それを上にまで引き上げるのは無理だ。コレットが非力なのではない。エリックの方が体格がいいのだ。  両脇から水夫達にも手伝ってもらい、なんとか引っ張り上げることに成功する。こういうときに問題があるのは頭の中だ。ぐったりとした身体を横たえ、頭を固定した。早く船医に診せなければ。  その前にティムだ、とコレットは漕ぎ手に指示を出す。銃を構えていたアイリーンの姿から想像するに、恐らく撃たれて出血している筈だ。弾が残っているなら破傷風になる恐れもある。  急げ、と声を掛け合った。
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