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エピローグ(1)
「見舞いに来てやったぞ、エル坊!」
従者の先触れもなく唐突に扉を開け放ち、満面の笑みを向けて来た国王の姿に、エリックはうんざりとした。
レヴェラント島での一戦から三日――エリックは寝台の上の住人だった。
頭の怪我は問題ないと診断を受けている。帰国してからすぐに宮殿医も診てくれたらしいが、しばらく安静にしていればいいという診断を受けたという。どうやら頭に強い衝撃を受けた為に、一時的に意識を失った程度だったらしい。
「酷い顔だなぁ、お前」
しかし、殴られた右目の傍は酷いことになっている。今は青黒く腫れ上がっているし、そのときの衝撃で小さな血管が切れていたらしく、右目はその出血の影響で充血して真っ赤だ。
アーネストはそんな末弟の姿をけらけらと笑い飛ばし、寝台に腰を下ろした。あとからついて来たクラウディオも同意するように頷いている。
「この腕は?」
「筋を痛めているらしいんです。動かさないように固定されているだけですよ」
吊られている左腕を見てエリックは肩を竦めた。ゴッサムの剣を受けたときに痛めたらしく、改めてあの老海賊が剛力だったことを思い知らされる。
一週間もすれば痛みは取れる、という診断だったので、指示通りに湿布をして動かさないようにしているのだ。それももうだいぶいいので、明日には動かすようにしようと思っていたところだ。
なるほど、と頷きながら、アーネストは寝台の反対側にいる小さな姿に気づいた。
寝台の隣に置かれた椅子に、ミシェットがちょこんと座っている。その彼女は大きな瞳を更に大きく見開き、アーネストのことを驚いたように見つめていた。
「これは大変失礼をした」
すぐに立ち上がると、寝台を回り込んでミシェットの前に行って跪いた。ミシェットは慌てて立ち上がる。
「お立ちください、国王陛下。困ります」
「ヴァンメール公国のマリー・ミシェット公孫殿下とお見受け致します。このような場所で失礼かとは思いますが、是非にもご挨拶を致したく……」
「あの、困ります。えぇと……どうしましょう。エリック様……」
臣下のように礼をとるアーネストの姿に、ミシェットはすっかり困ってしまう。助けを求めるようにエリックを見つめると、彼はムスッとした表情で、にこにこと笑っている次兄の方を見遣った。
「ディオ異母兄上……俺は今こんな状態なんですから、あなたが止めてくださいよ」
「えぇ? 嫌だよ。面倒臭い」
自分で止めなさいよ、とクラウディオは椅子を引いて来て腰を下ろす。隅に控えていた使用人に「お茶じゃなくて白湯もらえる?」と告げると、もう完全に傍観の姿勢に入ってしまう。
エリックは溜め息をつきつつ、跪いて頭を垂れている長兄を睨みつける。
「あんまり妻を困らせないで頂きたいんですけどね、異母兄上。挨拶なら普通にやってくださいよ」
公的な挨拶は、エリックの怪我が治ってから、王宮の謁見の間で行うことになっている。主要な貴族達も列席することになるので、それでミシェットが輿入れして来たことを知らせるお披露目となる予定だ。つまり、この場で挨拶する必要はないし、ミシェットが異国の姫であったとしても、国王がわざわざ膝をつく必要もないのだ。
変な悪巫山蹴はやめろ、と言うと、アーネストはにやりと笑って顔を上げた。
「妻って言ったな?」
「……だったらなんですか」
「姫を嫁にするって決めたんだな?」
アーネストは立ち上がると、再び寝台に腰を下ろす。今度は寝台の主に体当たりをかまして。意外と痛い。
「迎えに行かせたのは異母兄上でしょうが」
今更なにを言っているんだ、と呆れつつもうんざりとして長兄を押し戻していると、彼は肩に腕を回してきた。左肩の痛めているところにしっかりと当たる。痛い。本気でやめて欲しい。
「そうかぁ。姫のことが気に入ったのか、エル坊」
「痛い。向こう行ってください。エル坊って呼ぶのいい加減やめてください」
「いやな。俺達はずっと前から、お前には、こういう守ってあげたいような女性が似合いだろうなーと思っていたんだ。なあ、ディオ?」
「そうだっけ?」
白湯を受け取ったクラウディオは、のんびりと首を傾げる。
そうだったろう、とアーネストが唇を尖らせるが、クラウディオは知らん顔だ。そんな遣り取りにエリックが鬱陶しそうに顔を背けている。
異母兄弟のこの様子に、ミシェットはますます驚いてしまう。兄弟姉妹のいないミシェットにはわからないが、兄弟とはこういうものなのか。
以前、仲は悪くないのだが、小さい頃は兄達によくいじめられた、とエリックが話してくれたことがあったが、その言葉の意味がなんとなくわかった気がする。強引な長兄と我が道を往く次兄に、末っ子が振り回されていたのだろう。在りし日の三兄弟の姿が目に浮かぶようだ。
少し楽しくなってしまって、思わず口許が緩む。
その笑顔を見たアーネストが、寝台を飛び下りてミシェットの前に立った。
「笑ってくれたね?」
「……ご、ごめんなさい」
「いいんだよ、姫。女の子は笑顔でいてくれないと」
アーネストはにこにこ笑って首を振る。
「では、改めて……俺はアーネスト・ブライトヘイル・ラクレア。賢いクラウディオとやんちゃなエリックのお兄ちゃんです」
自己紹介をする長兄に、弟達は「お兄ちゃんとか気持ち悪いからやめろ」と声を揃えて顔を顰めた。そんな様子にミシェットはまた笑う。
「マリー・ミシェット・エル・ダンテスと申します。ミシェットとお呼びください」
「わかったよ、ミシェット。これからは俺達のことも家族と思って接して欲しい」
「はい、陛下」
「アーニィでいいよ」
「僕のこともディオでいいですよ」
飲み終わったカップを置きながら、軽く挙手をしてクラウディオが横から口を挟む。はい、とミシェットは頷き、エリックを振り返った。彼も微かに笑みを浮かべている。
ミシェットは幸せだと感じた。この温かな人々のいる国で、自分はこれから生きて行くことになるのだ。
「あ、そうそう。お前、しばらく謹慎な」
穏やかな空気が流れているところに、急に思い出したようにアーネストがエリックを指差した。指先を突きつけられたエリックは、一瞬置いたあとに「はあ?」と顔を顰めた。
「当たり前だろう、無茶ばかりしやがって……。エスターも修理をする必要があるし、終わる頃には冬だ。南に移動してる時間なんかないだろうが」
冬季に王都の港が閉鎖されている間、完全には凍結しない南方支部を拠点に動くことになるのが通例だ。それまでに海軍のほとんどは、南方支部に移動することになっている。
「降格させないだけ有難いと思え。そして、胃潰瘍になったコレットくんに感謝するんだな」
憐れな副官はとうとう胃に穴を空けたらしい。
「これは陛下のご厚情だよ、ラクレア艦長」
唖然としていると、これは今回のことで怪我人が出たエリックの部隊を静養させる意味もあり、必要なものなのだ、とクラウディオが捕捉するように告げる。
「上官が身勝手だと部下が苦労するな、ラクレア? 辞令はこれだ。受けろ」
控えていた侍従を招き寄せて文箱を受け取ると、アーネストは国王の顔になってエリックに授けた。返す言葉もないエリックは、寝台の上にいる無礼を詫びて頭を下げ、辞令を受け取った。
ミシェットは知っている。アーネストが本当はすごく心配していたことを。
***
あれは、レヴェラント島から引き上げ、レディ・エスター号の医務室になっている船室に寝かされているときのことだった。
少し前から船医や士官達が行き来する物音で目を覚ましかけていたのだが、コレットの声が聞こえて意識がはっきりとした。
「わたしがついていながら、申し訳もございません」
そっと目を向けると、コレットが床に膝をついて項垂れていた。
隣には誰か――あとでアーネストだったと知るのだが、彼が立っていて、寝台を覗き込んでいた。
「お前は悪くないよ、マーティン・コレット大尉。こいつが無茶をしただけだろう」
いいえ、とコレットは首を振る。確かにその言葉の通りだったが、止めきれなかった自分にも責任があると思っているのだ。
「小さい頃からやんちゃで、なまじ丈夫なものだから、平気で無茶をする。木から落ちたのなんて一度や二度じゃない。こうなってしまったのは、それを更生させなかった我々家族の責任だが、灸を据えるのにいい機会だ。大尉が気に病むことはない。わかったな?」
「……はい」
コレットが頷いたのを見ると、アーネストは寝台に腰を下ろし、眠っているエリックの髪を撫でた。
「――…馬鹿者が。心配ばかりかけさせて」
光の加減で表情はわからなかったが、囁くアーネストの声が僅かに震えていた。その声が、ミシェットが足を折ったときに目覚めた際、祖父が涙を零しながら言った声と同じ調子だった。
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