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小さな姫君(2)
翌日の早朝、ミシェットはエリックに連れられて、久しぶりに両親の眠る墓所へと向かった。今日明日と忙しくなるので、まだ余裕のある朝の内に少し話をしてみたい、とエリックが誘いに来てくれたのだ。
怪我が完治していないミシェットの為に馬を借り、宮殿の外れにある墓所までの緩い坂道をゆっくりと進む。
「わたしには兄が二人と、姉が一人います」
道すがら、エリックは自分の家族のことを話してくれた。
自分だけが上の三人と母親が違うのだが、そういったことで差別されることはなく、兄弟仲は良好な方だった。それでも小さい頃は兄二人に随分と虐められた、と笑う。笑って言うくらいなのだから、それは凄惨な虐めではなく、愛情のある悪戯だったり揶揄いだったりしたのだろうが、当時の幼かったエリックは幾度となく泣かされたのだという。今でも兄達には逆らえないらしい。
国王である長兄の許には可愛い王女がいて、ミシェットが着いてからいくらかした頃には、二人目の子供が生まれることになるだろう、と言われ、少し楽しみになる。
姉は降嫁していて兄達よりは会うことが少ないが、やんちゃ盛りの男の子が一人と、早熟な女の子が三人もいるらしく、たまに会いに行くと喧しくて敵わない。
「ああ、そういえば、上の女の子達は姫君と同じ年頃です。よければ友達になってやってください」
「それは楽しみです。仲良くしてくださるといいのですが」
「口が達者で生意気でしょうがないとも思うんですが、それはわたしが大人だからでしょうね。下の子達の面倒をよく見るいい子です」
ふと、ミシェットの表情が曇る。その様子に、エリックは目敏く気づいた。
「退屈でしたか」
昨日会ったばかりで、どういった会話を好むのかわからず、取り敢えず今後縁戚となる兄姉の話をしたのだが、あまりよい内容ではなかったようだ。女の子は難しい。
「え? いいえ、そんなことは……」
ミシェットは慌てて首を振る。
「ただ……お姉様のお子さんと同じ年頃の私などがお嫁様で、エリック王子様に申し訳なくて」
昼前には司祭がやって来る。司祭の前で誓いを立てて婚姻宣誓書に署名したら、エリックとミシェットは夫婦になるのだ。
今ならまだ間に合う。取り止めるのなら、司祭が来る前に決断しなければならない。
ミシェットの言いたいことがわかったのか、エリックは押し黙る。
「……少し、大人の話をしましょうか」
丁度墓所の前で手綱を引くと、小さな溜め息と共にそう囁いた。ミシェットはその申し出に困惑したが、了承して頷く。
馬から降りるのに手を借りようとして、そのままエリックの腕へと抱えられる。いい、と断ったのだが、怪我がまだ完治していないのだから、とやんわり諭され、静かに従った。
父母の墓の前まで運んでもらうと、そっと降ろされる。久しぶりに来たわりに、石棺の上には真新しい花が供えられていて、手入れを頼んでいた女官がきちんとしてくれていたのだと知れる。
「姫君は……ご自分のお立場について、何処までご存知でいらっしゃる?」
隣に並んだエリックが静かに尋ねる。えっ、と顔を上げて見上げると、少し悲しげな瞳がこちらを見下ろしていた。
その視線に、ああ、と小さく吐息が零れる。
彼の言わんとしていることがわかる。気に入っていた小物が頻繁に壊れること、可愛がっていた小鳥が死んだこと、身の回りで小さな事故が重なること、大きな怪我をしたこと、急すぎる結婚のこと――それが使用人達の噂に繋がり、その噂と自分がどう関わっているのかということを。
「……叔母様が、私を邪魔に思っているという噂は、聞いたことがあります」
昔から叔母に嫌われているのは確かだ。そして、信じたくはない話だが、使用人達の噂話では、叔母がミシェットの命を狙っているということになっている。
「お祖父様ははっきりと言いませんけれど、エリック王子様との縁談のお話も、私を遠くへ逃がす為のものだと理解しています」
悲しげに零されるミシェットの答えに、エリックは素直に驚いた。まだ十歳にならない幼い子供だと思っていたが、彼女は随分と聡く、自分の置かれている状況を正確に把握しているらしい。
エリックは膝をつき、俯き加減のミシェットの視線に目を合わせた。
「前例のないことらしいのですが、姫君が継承権を放棄することを議会に認めさせれば、簡単に片付く問題だとわたしは思っています。けれど、大公閣下はそれをよしとはしておられぬご様子で、その為に、あなたとわたしの婚姻が必要となったのです。わたしが――我がブライトヘイルが、姫君の後ろ盾となれるように」
何故ミシェットに継承権を放棄させないのか不思議でならないが、恐らくアイリーンに大公位を継がせない為だと思われる。噂によると随分と野心家な女性のようだが、それ以上になにか理由があるのかも知れない。
「これは政治的な結婚です。祖国を離れられる姫君には、見知らぬ土地で寂しい思いをさせることがあると思います」
両親のように恋愛結婚ではなく、年も離れている愛情のない結婚であるのはわかっていたが、少し突き放されるような口振りに、僅かに悲しさを滲ませながらも頷く。
「四方を海に囲まれる我が国には海軍が重要で、王より一艦隊を任されることもあるわたしは、一年の大半を海の上で過ごすような生活をしていました。今後もそういう生活が続くことと思います」
「はい」
「けれどわたしは、あなたに笑顔でいてもらいたい」
予想していなかった言葉に、ミシェットは小首を傾げる。
エリックは微笑み、ミシェットの小さな手を優しく押し戴くように握り締めた。
「わたし達は年が離れていて、あなたもまだ幼く、一般的な夫婦というものとは少し違う関係になるかも知れない。それに、異母兄達に言わせれば、わたしは武骨者で気が利かず、女性にはとても退屈な男なのだという……。そんなわたしですから、お恥ずかしいことに、あなたを幸せにすると胸を張っては宣言出来ません。けれど、悲しませることだけはしないと誓います。努力を惜しみません」
強い声音ではっきりと言ったエリックの視線は、両親の眠る石棺へと向けられる。
「ご両親に誓います。あなたがいつも笑顔でいられるように努力することを」
「エリック王子様……」
胸の奥に込み上げてくるこの感情をなんと言えばいいのか、ミシェットにはまだわからない。けれど、夫となる青年の言葉がとても嬉しくて、彼が自分のことを真摯に考えてくれていることが有難くて、涙が溢れそうになる。
「エリックでいいですよ、姫君」
そう言って微笑んだエリックは、ミシェットの潤んだ目許にそっと手を伸ばし、大きな掌で触れてきた。温かいその手が、決して自分を傷つけるものではないのだと、ミシェットにははっきりとわかった。
「では、私のことも、ミシェットとお呼びください」
その温もりの優しさに応えるように、ミシェットも微笑んだ。
「妻として、ミシェットを大事にすると誓います」
囁いたエリックの唇がミシェットの手の甲に触れた。優しい口づけに不快さはなく、ホッと安らぐ心地になる。その感覚に、エリックのことを好きになれる筈だ、と思った。
年齢も離れているし、お互いのこともよく知らないが、きっと仲良くなれる、と確信めいたものがミシェットの中に生まれる。それは不思議な感情だったが、大きな違和感はなく、遠くない未来のことだとはっきりと感じられた。
自分はまだ子供だからなにも出来ないけれど、いつの日にか、亡き両親のような温かい家庭を築けると嬉しいと思う。
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