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小さな姫君(3)
戻りましょう、とエリックに促される。そろそろ朝食の時間だ。
照れ臭いながらも素直に頷くと、再び抱き上げられる。ふわりと高くなる視界に、無意識のうちに胸が弾んだ。
「重くないですか?」
「ちっとも。姫……ミシェットよりも重いものはいくらでも運んだことがあります」
「力持ちですね」
「これでも海の男ですからね」
「私、海に出たことはないんです。エリック様のお国には、お船で行くのですか?」
「はい。大きい船ですよ」
「お船に乗るのも初めてです。少しわくわくしています」
「それはよかった」
楽しく笑い合いながら墓所の鉄柵を開いて外に出ると、乗馬中の女が待ち構えていた。
「随分と楽しそうですこと」
朝陽の反射で誰かわからなかったが、含み笑いながら零された声ですぐにわかった。途端にミシェットの気分が沈み込む。
「お嫁に行くのですってねぇ、ミシェット」
濃い色の日除けのベールの所為で口許しか見えないが、真っ赤な唇が弓月の形に歪んでいる。微笑んでいるにしては、なにか嫌な空気を感じる笑い方だった。
誰だ、とエリックは顔を顰めた。口振りからすると、ミシェットと近しい間柄のようだ。
「ご両親に報告していたの?」
軽く手綱を引いて馬首をこちらへ向けながら、重ねて問いかけてきた。
「アイリーン叔母様……」
ミシェットが小さく呼んだ名前で、この女性が件の公女か、とエリックは気づく。
「そちらがブライトヘイルの王弟殿下でいらっしゃるのかしら?」
アイリーンはエリックに視線を向け、僅かに首を傾ける。その視線に冷たさを感じ、これはなかなか厄介な相手だな、と判断した。
「よくご存知ですね、公女殿下。こちらには非公式で伺ったのですが」
公的な訪問となると、大々的な出迎えや、国主主催で歓迎会などを催さなければならなくなる。そういったものを抑える為にお忍びという態を取り、大公とミシェットの側近ぐらいにしか話は伝えていなかった筈なのだが、それを詳しく知っているということは、彼女の情報網が宮殿の奥深くにまで伸びていることになる。
エリックはアイリーンの出方を伺った。
彼女はころころと笑い声を立てて徐に日除けのベールを持ち上げると、警戒するエリックに向かってその顔を晒した。
「非公式と言えど、ブライトヘイルの軍船が入港したことはわかりますもの。それも、連戦連勝中の王弟殿下乗船のレディ・エスター号の入港なのですから、私などの耳にもすぐに入って来ましてよ」
「……エスターの名前がそこまで有名だとは知りませんでしたね」
「ご謙遜を。ブライトヘイルの第三王子と言えば、武功で有名なお方ではないですか」
直接お会い出来て嬉しいわ、と微笑むアイリーンに、エリックは剣呑な目を向ける。
(よく言うぜ……)
エリックは海軍に入隊してまだ五年ほどである。十三の年から予備隊に入隊はしていたので軍歴自体は十年にはなるが、指揮官の一人として艦隊を任されるようになったのはほんの三年前のことで、レディ・エスター号が建造されたのはその半年ほど前だ。この三年で戦功を立てるような大きな戦もなかったし、同盟国として親交の深い国とはいえ、大陸を挟んで離れた海域に位置するヴァンメールまで名前が知られているとは思えない。
野心家という噂は聞いていたが、他国の情報を集めているほどとは思わなかった。
朝陽に照らされた容貌は、双子だったというだけあって、亡くなったミシェットの母マリー・ソフィアとよく似ている。けれど、アイリーンの顔には生来の気の強さが滲み出ているのか、決して二人を間違えるようなことはないだろうと思われる。
母と同じ顔をしている女にここまで敵意を向けられるということが、ミシェットはつらくはないのだろうか、と腕の中の少女が不憫に思えた。
「――…そろそろ朝食の時間になりますので、失礼致します。公女殿下」
視線を外して軽く会釈し、乗って来た馬へとミシェットを乗せた。彼女は不安そうな表情でこちらを見つめてきたが、言葉にはせず、そっと笑みを浮かべて頷いてやる。
「あら。では、私も戻ろうかしら」
婿を迎えたアイリーンは慣例に従って宮殿内には住まず、すぐ近くに屋敷を構えているらしいのだが、日中のほとんどは宮殿の元の自室で過ごしているという。それ故か、背を向けながら「また後ほど」と告げて去って行った。
エリックも手綱を解いて騎乗し、行きと違って馬を急がせる。その速さにミシェットは少し驚いたようで、エリックにしがみついてきた。
あまり乗り気ではなかった縁談だが、ミシェットと直接会い、大公と言葉を交わして気が変わった。
この小さな少女を守らなければ、とエリックは強く思った。
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