碧洋の真珠(1)

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碧洋の真珠(1)

「エリック王子、ミシェット。これを二人に」  宮殿内の聖堂で婚姻宣誓書に署名を終え、それを司祭と主席議長が確認し、恭しく保管箱へ納めたあと、大公が二人の前に大振りな短剣と指輪を差し出した。 「ヴァンメールの統治者たる証だ」  いったいなんだろう、とエリックが見ていると、大公はそう答えた。 「宝冠、頸飾、錫杖、そしてこの宝剣と指輪――この五つを以て、エル・ダンテス家の当主の証と為す。これをひとつずつ持っていて欲しい」  さあ、と差し出されるが、驚いてエリックは辞退する。 「そんな重要なものを預かれません」  言うなればこれは国宝ではないか。そんな大事なものを、継承者であるミシェットだけならわかるが、自分まで渡される理由がわからない。自分はただミシェットの夫という立場になっただけで、ヴァンメールの公位に関わる立場ではないと認識している。将来摂政として立つことになるかも知れないが、それは仮定の話であり、今はそこまで深い関わりではないと思っている。  困る、と強く言うが、大公は宝剣をエリックの手に握らせた。 「ミシェットはこの指輪を持っていなさい。大きいだろうから紐かなにかを通して首にでもかけて、決して肌身離さずに、な」  押し返そうとするエリックの手をしっかりと握り込んで押しつけながら、孫娘の方へは指輪を差し出す。  ミシェットは頷いて受け取るが、まだ小さな手には言われた通りに大きい。一番太いだろう親指に嵌めても簡単に抜けてしまい、すぐに落としてしまうのが目に見えている。肌身離さず持っている為には、祖父の言うように首からかけているしかないようだ。 「この五つの真珠は『碧洋の真珠』と呼ばれる一揃いだ」  ミシェットが指輪を大切に握り締め、エリックも宝剣を渋々受け取ったことで、大公はゆっくりと説明し始める。  五つの装具にはどれも大粒の真珠が象嵌されている。人魚からの贈り物だと伝わるその大粒真珠は、エリックが今まで見たこともないほどの大きさで、持ち主である大公自身も、このような大きさは天然物でも養殖物でも目にしたことがないという。  その不思議な真珠が五つ使われた装具を、戴冠式のときに使うのだ。 「ミシェットも、エリック王子も、嘗てこの国が深い霧に包まれ、海流で人を寄せつけなかった島だったことは知っているね」  ほんの二百年ほど前までは当たり前で有名な話だったのでよく知っている。その名残なのか、今でもこの島の周りの海流は読みにくい。荒れているわけではないのだが、思わぬ方角へ流されてしまうのだ。昨日エリック達が入国するときも、上手く船が進まずに驚いたものだ。操舵手の技量による力技で入港したのだが、穏やかな流れでおかしいところも見当たらないというのに不思議なものだ、と航海士共々首を捻っていた。  人魚が外敵の侵入を拒んでいる、とはよく言ったものだと思った。  ブライトヘイル領海にも流れのおかしな海域が存在するが、それとはまた少し違う。あの海域は磁場もおかしいらしく、余所者が迷い込むと方向を見失って遭難する。ブライトヘイル海軍の人間でもなければまともに運航出来ないものなのだ。その海域の経験者である操舵手と航海士が、ヴァンメールの海流は読みにくい、と口を揃えるのだから、やはり変わっているのだ。 「あの不思議な海流は、この真珠に宿る不思議な力に因るものだ――と伝えられておる」  大公ははっきりとそう言った。  御伽話だろう、とエリックは顔を顰める。人魚はもとより、妖精や魔法などは物語の中だけの話だ。何百年も前はそれらが現実だったとしても、時代は変わり、今の世の中にそういった存在が残っているなんて思えない。  だが、人魚伝説の残る国で育った幼い妻は違う考えのようで、煌めく瞳で祖父のことを見つめ返していた。  やはり子供だなぁ、とエリックは思った。御伽話と現実がまだ近い場所にある年頃なのだろう。 「まあ……わたしも真剣に信じてはいないのだが、な」  年中島を覆っていた霧が晴れたのだって、海流が変わったのだって、気候や気象が変化したからのことだろう。記録を辿ってもそのように考えられる要因が多々ある。  大好きな祖父にやんわりと否定的な言葉を告げられ、ミシェットはしゅんとした。  だがな、と大公は続ける。 「これがヴァンメール国主の証であることは変わりない。これをお前達に預けるのは、もしも今後、取り交わした婚姻宣誓書が破損もしくは紛失した際、マリーの名を持つ正当な継承者であることを明かす物になって欲しいからだ」  物騒な話だ、とエリックは眉を寄せる。大公の口振りだと、たった今署名を終えて保管された筈の婚姻宣誓書が、遠くない未来に何事か起こることを前提にしている。  実の娘だというのに、そこまで警戒しなければならない相手だというのは、どういう気持ちなのだろうか。そういったものと無縁に育ったエリックには想像もつかなかった。
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