大好きなひと

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 食事を終えた私たちは寺町通を下がり、四条通を目指していた。  軽やかに弾むスカイブルーのランニングシューズを見下ろしながら、彼の歩む道を一歩一歩辿っていると、先輩の歩幅が私よりも随分と大きいことに気付く。しかし、どうしてか私が置き去りにされることはない。それも歩調を合わせてくれる先輩の優しさなのだと思った時、真っ直ぐに進んでいたシューズが僅かに斜めに向いた。  同時に、頭上から低い先輩の声が降り注ぐ。 「紫野ちゃん、足元ばっかり見てどうしたん?」 「あ、いえ」  大きく首を横に振りながら顔を上げると、先輩は不思議そうな表情のまま再び正面を向いて歩き出す。  彼の隣に並び、整った横顔に視線を向けた時、視界の片隅に映る黒いリュックが目に留まった。  それはノートや参考書がすっぽりと収まってしまう程の大きさで、その質量感を見る限り空っぽだというわけではなさそうだ。講義を受けに来たわけでもないはずなのに、何を持ち運んでいるのだろう。  じっくりと考え込んでいると、私の視線に気が付いたのか先輩はにんまりと笑った。 「何入ってるんか気になる?」  心を見透かした言葉に、どきりとした。  私は無言で頷く。  四条通に出る直前、すっと目の前に差し出されたのは、全てのはじまりだったあの日、推理小説研究会のボックスで目にした例のノートであった。 「あっ、地獄地図!」  私が上げた驚嘆の声に、周囲が一瞬だけざわつくのを感じたが、元より騒がしい商店街の空気に飲み込まれ、あっという間に消えていく。  シンプルなキャンパスノートの表には堂々と「地獄地図」と記されている。 「……これって、先輩の趣味ですか?」  そう問いかけると、先輩は微かに首を傾けた。 「趣味っていうか、僕の責務みたいなもんやと思ってる」 「責務?」  その言葉の意味がいまひとつ分からない。  抱いた疑問を解くためにノートを開こうと手をかけたその時、先輩は私の腕を優しく掴み、静かに首を横に振った。 「今はまだ見せられへん。ごめんな。でも、完成した時には一番に紫野ちゃんに見せたげるから」  そう、彼はくすりと淡い笑みを零しながら、そのノートを大きなリュックへとしまった。
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