壱 賤ヶ岳の戦い

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壱 賤ヶ岳の戦い

 大坂夏の陣より時を戻すこと、およそ三十年前。  天正10年(1582年)12月、羽柴(はしば)秀吉(ひでよし)柴田(しばた)勝家(かついえ)との和睦を反故にして、近江の長浜城を攻撃。勝家の居城のある北ノ庄城は北陸にあるため雪が深く、援軍を出すことができぬまま、長浜城は落城。  さらに秀吉は、美濃の岐阜城、翌天正11年に伊勢の長島城等、勝家に味方する城を落としていった。  2月末、雪解けを待たずして勝家は近江へ三万の兵を率いて出陣、羽柴勢と対峙し、4月に両軍は激突した。  当初、柴田勢が優勢であったが、佐久間(さくま)盛政(もりまさ)の命令違反、前田利家らの裏切りもあり、勝家は越前への撤退を余儀なくされた。  城を包囲する大軍を天守から見下ろしながら、勝家は覚悟を決めた。勝家は、妻・お市の方と茶々、初、江の娘達を呼ぶ。 「もはやこれまでか。お市、そなたは娘達を連れて、秀吉のもとへ行け」 「嫌でございます。わたくしも、殿と共に」  お市の方は、真っ直ぐに勝家を見る。その気持ちは、勝家と同じなのであろう。お市の方に続き、私達もと三人の娘も言うが、 「なりませぬ。そなた達は、生きなさい」  険しい顔で、お市の方は娘達に言う。 「母上が残るなら、私達も……」 「そなた達には、浅井と織田の血を残して欲しいのです。だから、生きて、母の最期の頼みを聞いてくれますね」  涙を堪え、優しく諭す母の言葉に、三人はうなずく。それを見たお市の方は、娘達を不安にさせないように微笑み、泣く()らを抱きしめた。  そして、三人は勝家とお市の方に別れを告げ、それぞれの乳母や数人の家臣らと共に、秀吉の陣へ向かった。
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