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(二)
目が覚めた。全身がじっとりと汗ばんでいる。
新九郎はぼんやりとした頭を持ち上げて辺りを見回した。
見たことのない座敷だ。しかも、自分はこざっぱりとした清潔な着物を着て、柔らかな布団に横たわっている。
「起きられましたか?」
女の声がした。声の方へ顔を向けると若い尼僧が座っていた。
「道ばたで倒れておられたので当寺にお連れしました。熱もあって大層具合が悪そうでしたので。寝ている間、ずっとうなされておいででしたね」
尼僧の白い手が新九郎の額に触れた。ひんやりと冷たかった。
「熱は下がったようです」
尼僧はにっこりと微笑んだ。紅など引いているはずはないが、尼僧の唇はくっきりと赤い色をしていた。
新九郎は礼を言って体を起こした。座敷に続く縁側の向こうに光る水面が見える。
「ここは九十九里ですか? 海が見えます」
新九郎は尼僧に尋ねた。
「九十九里の海は近いですが、あれに見えるのは海ではなく湖ですよ」
尼僧は笑いながら答えた。
「対岸が見えないほど広い湖で、この辺りの者は[椿の海]と呼んでいます」
「椿の・・・・・・」
新九郎は思わず眉根を寄せた。
「どうかなさいましたか?」
「いえ・・・・・・寝込んでいる間に気持ちの悪い夢を見たのですが、その夢が椿にまつわるものだったので・・・・・・」
新九郎は自分が見た悪夢を尼僧に語った。
「その夢・・・・・・もしかすると、この地に古来より棲みついていた悪鬼が、こなた様の夢に入り込んで悪さをしでかしたのかもしれませんよ」
新九郎の話を最後まで聞き終わると、尼僧は微笑みながら事も無げに言った。
「この[椿の海]には言い伝えがあるのです。大昔、この地には枝葉が天を覆い尽くすほどに巨大な椿の木が植わっていて、その木には人々に悪事を働く鬼が住み着いていた。そこで、猿田彦という神が鬼を退治しようと矢を射かけたところ、鬼は椿の木を地面から引き抜いていずこかへ逃げ去った。引き抜かれた椿の木の根の跡に水がたまり椿の海になったというのですよ」
「悪鬼はこの地を去ったのですか?」
「はい、そう伝えられています。しかし、逃げたはずの鬼は、案外この湖のすぐ近くに今も棲んでいるのかもしれませんね」
尼僧はそう言ってくすりと笑った。
数日間寝たきりだった体を動かすため、新九郎は外に出ることにした。尼僧と並んで「椿の海」のほとりを歩く。芦の生い茂る水辺に、鳥達がポウ、ポウ、と長閑な声で鳴き交わしていた。
尼僧の言った通り、遙か遠くの対岸の景色はうっすらと霞んでいてよく見ることができない。海という名を冠するに相応しく、本当に広大な湖だ。
日の入りの刻が近い。山の端からこぼれる夕焼けの光が湖面を赤く輝かせていた。
「いにしえ人は、夕暮れのこの水の色を見て椿の花を思い浮かべていたのかもしれませんね」
そう呟いた尼僧の横顔も、夕日の光に照らされて赤く染まっていた。
新九郎は先ほどまで見ていた夢を思い出してしまい、どうにも落ち着かない心地で尼僧の唇をちらりちらりと眺めている。
ふっと辺りが急に暗くなった。山の向こうに日が沈みきったのかもしれない。周囲は急速に闇に呑み込まれる。
その時、新九郎は奇妙なことに気がついた。日が沈み切ったにも関わらず、椿の海の湖面の赤い輝きが消えないのである。夜の闇の中、広大な椿の海から赤い光が揺らめきながら立ち上り天を照らしている。
新九郎は驚愕して水面に目をこらした。水の底で大きな椿の木が枝葉を広げている様子が見えた。その枝に咲いている無数の椿の花が赤い不思議な光を煌々と放っているらしかった。
「これはっ・・・・・・」
新九郎は思わず後ずさって尼僧の袖を掴んだ。
「おや、どうされました?」
慌てふためく新九郎とは対照的に尼僧の声は落ち着いて涼しげだった。
尼僧が新九郎の方を振り返る。
その顔を見て新九郎は、ぎゃっ! と悲鳴を上げた。
木のうろのような、真っ黒な闇に塗り潰された暗黒の目。夢で見た巨大な赤子の顔と全く同じだった。
尼僧が笑う。
アアアアアアアアア・・・・・・
尼僧の真っ赤な唇から、泣き声のような、悲鳴のような声が漏れ、湖を渡って反響した。
「うわああああああ!」
新九郎は逃げた。がむしゃらに。
足元でばしゃばしゃと水が跳ねる。袴の裾が濡れて重い。気が動転して、芦の原の中に駆け込んでしまったのかもしれない。しかし、そんなことももう構わない。とにかく全身の力を振り絞って逃げた。目の前の草木をかき分け、泥まみれになりながら、ただひたすら逃げる。
足を何かにとられた。泥水の中に勢いよく転がり落ちる。それでも新九郎は手で泥を掴んでは這ってでも前に進もうとした。進まない。足に絡みついているものがある。振り返る。うねるような歪な形の黒い枝。蛇のように蠢き、足に巻き付いている。枝には赤く光る大きな椿の花が揺れていた。
椿の花は赤い唇の形に変わった。
「新九郎殿・・・・・・どちらへ参られるおつもりですか?」
赤い唇はにやりと弧を描き、尼僧の声でしゃべった。
すると不意に、体のあちらこちらにモゾモゾとした不快感と刺すような痛みを感じた。
キイキイキイ・・・・・・キイ、キイ・・・・・・
二十匹ほどの赤い小鬼が鳴き声を立てながら新九郎の体に取り付いていた。小鬼達は新九郎の手足に噛みついたり爪を立てたりしながら傷をつけている。傷口から血が滴り落ちた。その血もまた、夜の闇の中で赤い光を放ち、みるみるうちに椿の花に変わっていく。
「うぐっ・・・・・・がぁ・・・・・・げぇえ・・・・・・」
新九郎の恐怖はついに頂点に達し、泣きながら嘔吐した。口の中からも沢山の赤い花が溢れ、ぼとりぼとりと泥水の上に落ちた。
アアアアアアアアアア・・・・・・
耳の奥に、頭の中に、あの泣き声が響く。痛い。頭も体も壊れてしまいそうに痛い。めまいがする。
ず・・・・・・ずず・・・・・・ず・・・・・・
枝が動き出した。引きずられていく。新九郎に絡みついた枝は「椿の海」の水底に新九郎を連れて行くつもりだ。
抵抗する力はもはや新九郎には残っていなかった。新九郎にべちゃべちゃとまとわりついていた粘っこい泥水は、やがて冷たく澄んだ水に変わった。
透明な暗い水の中、こぽこぽと息の泡を吐き出しながら、新九郎はただ、沈み、そして落ちていく。
揺らめく水の向こうに、ひしめいて林立する椿の森が見えた。
赤子がいる。
上へ下へと水の中に張り巡らされた椿の枝と花の向こうに、巨大な赤子の頭が浮かんでいた。新九郎を見つめてくる空虚で真っ黒な目。もう恐怖は感じなかった。
自分もこの場所で一輪の椿の花になり、あの赤子の一部となるのだ。わけもなくそう感じていた。
アアアァァアアアアァァァ・・・・・・
赤子の声が聞こえる。水が震えた。
目を閉じる。瞼の裏の闇の中で赤い唇が笑う。
アアアアァァァァアアアアア・・・・・・
あれほど恐ろしかった声が、不思議なことに今は美しい旋律の子守歌のように聞こえてくる。
新九郎は穏やかな気持ちに包まれた。そして、わずかに口を開けると、最期の息を頭上に向けてこぽり、と吐き出した。
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