これが恋だと気づくまで

8/9
54人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ
8 血で汚してしまった宮内君のスポーツタオルを綺麗に洗ったので、さっさと返さなければならない。そう思った時、今の今まで気づかなかったことに気づいてしまった。それは、綺麗に洗ったとしても、他人の血が付着していたタオルを今後も使いたいと思う人なんているのだろうか、というもの。私だったら、言っちゃ悪いけど少し抵抗がある。もし宮内君も同じ気持ちを抱くのであれば、弁償した方が得策のように思えた。 スクールバッグからスポーツタオルを取り出し、隣に座る宮内君に視線を向けた。だけど最悪なことに、彼は仲のいいクラスメートと談笑していた。と言っても、宮内君は私に見せる表情とは違うクール面を晒しているだけだったけど。あくまで聞き役に徹しているといったところか。どっちが本当の姿なのだろう。私と話す時は積極的で、表情も柔らかく感じるのに。 何はともあれ、この調子じゃ声はかけられない。いや、彼が1人でいたとしてもなかなか声をかける勇気なんて湧いてこないだろう。思い返してみれば、自分から話しかけたことなんてないのだから。いつも宮内君からで、寧ろそれが当たり前だとさえ思っていた。低脳だ。 スポーツタオルを膝の上に置いて、私は絶妙なタイミングを計っていた。彼が1人になった時に声をかけよう。そう思う反面、やっぱりまだ勇気が出ないから1人にならないで、と切に願う矛盾した気持ちがあった。 自分から話しかけるのは緊張する。名前を呼んでスポーツタオルを返すだけでいいのに。時間にして5秒もかからないんじゃないか。5秒なんて、こうやってあれこれ考えている間に過ぎている。ずっと緊張するより、5秒の緊張の方がマシじゃないか。 意味のない葛藤をする私は、俯いたまま自分の膝の上にある宮内君のスポーツタオルを見つめた。このタオルは、どれだけ宮内君の汗を吸い取ってきたのだろう。スポーツをする人にとってタオル必需品で、それを私は血で汚してしまったんだ。宮内君が自らこれを私に押し付けたとしても、汚したという事実は変わらない。 やっぱり返さずに、同じものを購入した方がいいのかもしれないと思った。それが礼儀でもあるんじゃないか。他人の血が付着していたタオルなんて、何も知らない人からしたら恐怖に値する。自分の血じゃなくて他人の血なのだから。 返すつもりだったタオルをバッグに戻した私は、今日の放課後にでも近くの店に寄ってみようかと思案した。ここら辺で買ったものではないかもしれないけど。 流石に断りもなしに同じものを買うわけにもいかないだろうから、それを伝えることだけはしないといけなかった。結局のところ、宮内君に話しかけることからは逃れられないのだ。 さっさと言ってしまいたい。その方が後が楽だ。先延ばしにすればするほどチャンスを逃してしまう。何も言えないまま宮内君を家に帰らせるのだけは絶対に避けなければ。 私はゆっくりと息を吸って吐いた。だけど意味なんてない。気晴らしにもならない。目的を果たさない限り、私の緊張は一生拭えないのだから。それは幼い頃から変わらない事実だった。 宮内君が1人になるのをいつまでも待ってるわけにはいかない。私は勇気を振り絞って大きく息を吸った。そのまま声を出して伝えたらいいだけ。難しいことなんて一つもない。簡単だ。私がやろうとしていることは簡単なことなんだ。 「み、宮内君」 ようやく出せた声は、情けないくらい震えている上にとても小さいものだった。これじゃ聞こえない。周りの声にかき消されて終わりだ。実際に宮内君の耳に私の声は届いていない。それは無反応な彼の姿を見れば明らかだった。 私は宮内君の横顔を見つめた。すると、偶然こっちを見た彼と目が合って。もしかして聞き取れたのか。あの声を。そう期待したけど、宮内君は何の反応も示してくれなかった。何を期待していたのだろう。馬鹿みたいだ。 全ての勇気を使い切ったような疲労感を感じ、しばらくは声をかける気になりそうもなかった。1回通らなかっただけで挫けてしまう自分が不甲斐ない。何度でも聞こえるまで呼べばいいだけなのに。 誰も自分のことなんか見ていないのに居たたまれなくなった私は、静かに席を立って教室を出て行こうと試みた。だけど誰かに手首を掴まれ、歩みを進めようとしていた足を止められた。それは宮内君によるものだった。掴まれた手首が熱を帯びる。 「おいどうした隼人。榊原さんの手首掴んでさ」 囃し立てるように言った男子生徒の声に、私は恥ずかしくなって俯いてしまった。掴まれているところを見られているのが耐えられない。それなのに、振り解こうとしていない自分がいて。 宮内君は男子生徒の揶揄を気にも留めず、私の手首を掴んだまま空いた片手で私のスクールバッグを手に取った。私はそれを眺めていることしかできなかった。 みんなの注目の的になりながら、宮内君は私を連れて教室を後にした。私は俯いたまま、突き刺すような視線を背中に感じていた。絶対に陰口を叩かれる。今まで以上に。 ランクの低い人間がランクの高い人間に手を引かれるなんてこと、周りからしたら許し難い現実で。もっと自分の立場を弁えてほしいけど、宮内君がそんな気遣いをするはずがなかった。周りの視線なんて全然気にしない人だから。現にすれ違う生徒に見られても手を離してくれなくて。こっちは振り払うこともできずに赤面しているというのに。 しばらく歩いてなぜか図書室に連れてこられた私は、宮内君の手が離れるのを名残惜しく感じながら、掴まれていた手首を見つめた。どうして名残惜しいなんて思ったのかはさっぱりだけど。 「遠慮せずにいつでも話しかけてきていいから。その方が嬉しい」 言いながら、一緒に持ってきていたスクールバッグを私に返した宮内君は、カウンターにもたれるようにして立つなり私をじっと見据えた。何も悪いことなんてしていないはずなのに、なぜか咎められているような気分になる。 私はスクールバッグの持ち手をギュッと握り締めた。宮内君がこれを持ってきた理由なんて一つしかない。私が預かっていたスポーツタオルのことだ。 宮内君は私のあの声を聞き取ることができていたのかもしれない。だからこそ、喧騒としている教室から連れ出してくれたんじゃないかと思う。 そう考えてしまう私は、自意識過剰な上に宮内君に甘えてしまっていて、そんな自分が途端に情けない人間のように思えた。いや違う。私は最初からそういう人間だった。更に磨きがかかったと言った方が正しい。 「遠慮とか、そういうんじゃなくて、その、会話の邪魔したらいけない、と思って」 単なる言い訳だ。遠慮してなかなか声をかけられなかった理由を、宮内君の友達のせいにしているだけ。彼らがいなくても、私はきっと遠慮気味に声をかけていた。さっきと同じように勇気を振り絞って。 普通に声をかけることができていたら、こんな手間をかける必要なんて少しもなかった。でも私にはそれができない。どうしても緊張してしまい、言葉が喉につっかえしまうのだ。噛みまくってスラスラと言葉を並べられないから、毎回恥をかいてしまうのは自分で。それが自信喪失に繋がっているとも言えるんじゃないだろうか。 「でもああいう世間話みたいなのは大概長くなるからさ、遠慮してたらいつまで経っても話しかけられないと思うけど」 「う、うん。そう、だね。ごめん」 そうなることを望んでいたなんて口が裂けても言えなかった。上手い言い訳を作って探して、その行為をしようとすることから逃げているだけの私は、単なる臆病者で。話したことのない人ならともかく、宮内君とは少しだけ話す仲になっている。それなのに遠慮していたら、いつか宮内君に愛想を尽かれてしまいそうだ。 私は自分を奮い立たせるようにして、一番近い場所にあった机にスクールバッグを置いた。友達との会話を抜けてまで、私との時間を作ってくれたんだ。その厚意を無駄にするわけにはいかなかった。 「あの、タオルのこと、なんだけど」 そう切り出して宮内君を見ると、彼は右手のひらを上へ向けて、まるで返してと言わんばかりに手を宙に浮かせていた。早く返してほしかったということが、その行為で丸分かりだった。 私は何かに急かされるようにしてスポーツタオルを取り出し、返す前に弁償したいことを打ち明けた。他人の血が付着していたタオルなんて使いたくないだろうことを付け加えて。 「星羅らしい考えだけど、俺は全然気にしねぇよ。だって俺が勝手に押し付けたんだから」 「でも」 「いいって。こっちは洗ってくれただけで感謝してんだから」 それ以上は何も言えなかった。あまりしつこいと嫌悪感を抱かれてしまうだろうから。それに、宮内君本人が気にしないと言うのであれば、私はそれに従うのみで。余計なお世話を働かせる必要なんてなかった。失敗した。 後悔の念に苛まれながらも、私は宮内君にタオルを返そうと歩みを進めた。お互いの手が届く距離まで近づくだけなのに、心臓がドキドキと跳ね上がる。自分から距離を縮めることなんてなかったから、初めてなことに緊張でもしているのだろうか。 「宮内君、あの、いろいろと、ありがとう」 あれだけ手助けしてもらったのに、お礼を伝えるのをすっぽかしていたことに今更気づいた私は、タオルを差し出すのと同時にそう言っていた。いつもは合わせられない目を、少しだけ合わせて。 宮内君は何かに取り憑かれたかのように、沈黙したまま私を見つめ、片方の手は私の手首を引っ張り、もう片方の手は私の後頭部に触れた。 予期せぬ宮内君の行動に目を見開いてタオルを床に落としてしまう私をよそに、彼はその整った顔をグッと近づけてきた。そしてお互いの唇が触れそうになった時、見計らったかのように校内にチャイムが鳴り響いた。その音でハッと我に返った宮内君は、私から手を離して視線を逸らした。 私は自分の唇に触れ、それから何をされそうになったのかを理解した。途端に顔がありえないくらい熱くなり、私は逃げるようにして図書室を飛び出した。スクールバッグの存在が頭から抜け落ちてしまうくらい、激しく動揺したまま。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!