これが恋だと気づくまで

9/9
54人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ
9 教室に戻って来ない宮内君のことをクラスメートから聞かれる前に、私は再び図書室へと足を運んだ。スクールバッグの存在を思い出したのだ。気まずいけど、持って来させるわけにはいかない。それに、黙って逃げてしまったことを謝罪する必要があった。といっても、彼が図書室にいるかどうかは分からないけど。 内心ハラハラしながら図書室に入ると、私のスクールバッグが置かれた机で頬杖をついて寝ているような宮内君の姿があった。私が落としてしまったスポーツタオルも、同じ机の上に無造作に置かれている。もしかしたらずっとここにいたのかもしれない。 私はなるべく音を立てないように息を潜めて歩みを進めた。例の現場となったカウンターの近くを通る時は、思い出して赤面してしまいそうになった。あのままチャイムが鳴らなかったら、私は宮内君に。その先を想像してしまい、私は完全に赤面してしまった。 人生初だ。誰かとあんなに近づいたのは。しかも若干まだ残ってる。掴まれた手首と触れられた後頭部に、宮内君の温かな手の感触が。指は長くて骨ばっているように感じて、当たり前だけど、女の私とは全然違っていた。 初めてなんだ。ああいうのは本当に。だからドキドキするのは仕方のないことで。決して宮内君だからドキドキしてるわけじゃない。断じて違う。絶対に。 1人で言い訳をする私の視界に、ある白い紙が映り込んだ。それは宮内君の手元にあって、彼の右手付近にはシャーペンが転がっていた。何をしていたのだろう。 忍び足で近づいて覗き込むように紙を見てみると、そこには誰かのスクールバッグが線画で描かれていた。それはとてもリアルで、思わず見入ってしまうほどだった。なんとなく絵と目の前の実物とを見比べてみると、ほぼ同じような形であることが分かり、どうやら私のスクールバッグを描いていたようだった。あの宮内君が。 「凄い」 思わず漏れた声にハッとなり慌てて口を押さえるけど、頬杖をついた状態ではきっと浅い眠りなわけで。私の気配や声に反応するかのように、ゆっくりと意識を覚醒させた宮内君は、ぼんやりとした眼差しで顔を上げた。居眠りとは言え、寝起きの宮内君を見るのは貴重だった。 何か声をかけようと口を開きかけたけど、何を言えばいいのか分からなくて結局口を閉ざしてしまった。なんだか凄く緊張している。今更ながら、2人きりということに気づいてしまったからだろうか。 「あ、俺、寝てた?」 言いながら、さりげなく紙を裏返す宮内君。その紙には何やら文字が印刷されていることから、損紙の裏に絵を描いていたことが窺えた。落書きのつもりなんだろうけど、絵が下手くそな私にとっては落書きレベルじゃないほどのクオリティーだった。 紙を裏返すという宮内君の行動を怪訝に思いつつも、彼の態度が少しも変わっていないことに内心驚いてしまう。例のことについて全く気にしていないような素振りじゃないか。あれは宮内君にとっては普通とでも言うのだろうか。いや、そんなはずはない。ここは日本だ。宮内君も列記とした日本人のはず。だから、海外みたいな挨拶なんてするはずがない。 そもそもあれは、挨拶と呼べるような軽いものではなかった。明らかに私を見る目がいつもと違っていたのだ。宮内君だけど、宮内君ではないみたいな、そんなよく分からない感じがした。 「う、うん、そうだね。えっと、私が来た時にはもう、寝てた、かな」 なるべく気にしないように取り繕ってみるけど、視線は泳ぎまくりで、宮内君の顔をまともに見ることすらできなかった。我ながら分かりやすい反応をしてしまっているなと思う。でも今更どうすることもできない。 「寝るつもりはなかったんだけどな」 宮内君は伸びをして椅子から立ち上がると、徐に紙を破くような持ち方をした。両手の人差し指と親指を中心に力が入っているのが分かる。 私は慌てて宮内君の手を両手で包み込むようにしてその行動を止めた。「待って」 躊躇なんてしなかった。してる暇なんてなかった。そんなことしてたら彼が自分で描いた絵を台無しにしてしまう。例えそれが彼の意思であったとしても、絶対に無下にしたくなかった。 宮内君は私の咄嗟の行動に目を見開き、それから顔を背けた。私だって自分の大胆な行動に驚いている。でもそれくらい、宮内君の絵を台無しにしたくはなかったんだ。彼の絵は綺麗で、私の荒んだ心を穏やかにしてくれたような気がしたから。 「や、破いて、捨てるなら、私がもらう」 続けてそう言うと、辺りに沈黙が漂った。気まずい。何か言葉を間違えてしまっただろうか。 チラッと宮内君を一瞥すると、同じようにこっちを見た彼と目が合って。途端に自分の大胆な行動に恥じらいを感じ、私はゆっくりと宮内君から手を離した。もうこのような行動はできないかもしれない。 「人の気も知らないで、期待させるようなことしてんじゃねぇよ」 感情を押し殺したような、苦しそうな声。いつもと違う宮内君の声色に、私は何も言えなくなってしまった。期待させるようなことをしたつもりなんてない。そもそも宮内君が私に何を期待したのか分からないため、手の施しようがなかった。 怒りや悲しみ、あるいは皮肉。宮内君の言葉からはそんな感情が読み取れた。でもその意味が何なのか私の頭では分からなくて、見当もつかなくて、ただ宮内君を少しずつ追い詰めているというその事実が私の前に突然現れて、広がっていた大きな道を塞いでしまった。 何かに気づいてあげられないことが悔しくて、気づかない自分が腹立たしくて、思わず泣いてしまいそうになる。私が泣いたって仕方がないのに。本当に泣きたいのは宮内君の方なのに。 「悪い。タオルありがとう」 素っ気なく謝り、ついでみたいにタオルのお礼を言って、宮内君は図書室を出て行ってしまった。あの紙を机の上に置いたまま。 私は宮内君が描いたスクールバッグの絵を見ながら、どうしようもないくらい悲しくなった。絵は蔑ろにせずに済んだのに、宮内君との仲には小さな亀裂が入ったみたいで、胸がチクチクと痛む。心が叫んでいるみたいだ。 「言ってくれなきゃ、分かんないよ」 誰が正しくて、誰が間違っているのか。何が正しくて、何が間違っているのか。その判断が、未完成な私たちには難しくて。だから、うまくいかないもどかしさが、感情となって溢れてしまうんだ。 ポタポタと零れ落ちる涙が、宮内君の絵を滲ませた。波紋のように広がるそれと同じように、私の胸にも悲しみが広がった。 もう誤魔化せなかった。自分の気持ちに正直にならざるを得なかった。宮内君のことでここまで感情が乱されるくらい、私は彼のことが好きになっていたのだから。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!