離れて、そして近づいて

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7 毎年静かに過ぎて行っていた夏休みが、今年はいろいろあって心身ともに疲労困憊だった。いつもは早めに終わらせていた課題も初めて最終日までかかってしまったほどだから、思っている以上に疲れ切っているのかもしれない。当然のことながら、受験勉強もできなかった。 怠さに押し潰されそうになりながらも、2学期最初の行事でもある体育祭の練習が幕を開ける。この行事はあまり好きではないし、ずっと傍観してるだけで満足だった。準備はちゃんと手伝うけど。 無難にパネル係を選んでいた私は、リーダーの指示を受けながら黙々と色を塗っていた。そうしながら、頭の中では別のことを考えていて。無論、それは宮内兄弟のことだ。弟の方の宗馬君からの告白の返事がまだできていない私は、いつまでもズルズルと引きずってしまっていて。それで宗馬君の気持ちが冷めてくれることをどこか期待しているのかもしれない。最低だ。 宮内君が好きだと断言しておきながら、宗馬君にも惹かれてしまいそうになっている私はやっぱり最低な奴だし、宮内君に対してその程度の気持ちでしかないんじゃないかと自分の気持ちに自信が持てなくなってきてしまう。 宮内君か宗馬君か。私に彼らのどっちかを選ぶことなんてできるのだろうか。どっちとも、なんて欲張りなことは絶対に言えないから、ちゃんと自分の意思で決めなければならない。宮内君のことが好きなはずなのに、そんな風に悩んでしまう自分が心底憎くて仕方がなかった。 「榊原さん、もし良かったら応援で使う旗に威風堂々って文字を書いてくれないかな?」 「え?」 考え事をしていた時に、突然パネルリーダーに声をかけられた私は、持っていた筆を危うく落としそうになった。旗に文字を書いてくれなんてそんなお願いされたことないし、ほとんど話したこともないクラスメートだから嫌でも挙動不審になってしまう。私は視線をキョロキョロとさせるだけで、はいもいいえも出てこなかった。 難しい? と首を傾げるパネルリーダーに、私は慌てて首を横に振った。文字を書くのは私にもできるような依頼だろうし、これを引き受けなかったらいつか後悔してしまいそうだ。 「あ、書いてくれる感じ? 良かった。榊原さん書道習ってるって聞いたからお願いしようと思ってたんだ」 半紙じゃなくて布だから書きにくいかもしれないんだけど、とパネルリーダーは不安そうに眉尻を下げた。書き慣れてるのは半紙だけど、少し工夫すれば布でもきっと大丈夫だろう。文字のクオリティーは下がってしまうかもしれないけど。 それよりも、誰から私が書道を習っていると聞いたのだろう。知っているのは宮内君くらいだと思っていたのに。まさか彼本人が伝えたのだろうか。いや別に構わないけど。秘密にしてって懇願したわけでもなければ、そうする必要もないのだから。 「あ、うん。えっと、上手には、書けないかも、だけど、や、やってみる、うん」 頼りないような返事をする私に向かって、パネルリーダーは嬉しそうな笑みを浮かべた。その笑顔を見ていると、自分を頼ったことを後悔させるわけにはいかないな、と自らプレッシャーを与えてしまった。なんて馬鹿なことをしているのだろう。 「ありがとう。5枚分用意してるから全部お願いしてもいいかな? 文字の位置とか大きさとかは榊原さんのオリジナルでいいよ」 オリジナルだなんて、ますますプレッシャーを感じてしまう。私のセンスが問われると言っても過言ではないわけだから、使用する応援の人はもちろん、同じ団の人に気に入られなかったら終わりだ。 いつもみたいに落ち着いて書けばそれなりに字は安定するはず。難しく考えずに自由に表現すればいいだけの話だ。書き終わってから文句を言われたら、自分で書けばいいじゃんって布をズタズタに引き裂いてみるのもいいかもしれない。実際はそんな行動力なんて微塵の欠片もないから、ただの想像で終わってしまうことだけど。 「わ、分かった。頑張る」 パネルリーダーの依頼を改めて引き受けた私は、5枚の大きめの布や墨汁、筆などを手渡され、書きやすい場所で書いていいよ、と後を任された。本当に私の自由にしていいみたいだ。 威風堂々。頭の中でその文字を書くイメージトレーニングをしながら、私は人気がなくて広い場所を探した。人が多い場所で書くのは目立つし邪魔になってしまう恐れがある。そもそも人前で書くのだけは避けたかった。見られているとなぜか書けなくなってしまうのだ。 体育館や武道場は練習で使われているため、当然の如くそこで書くことはできなかった。ここは無難に教室で書くほうがいいのかもしれない。練習が終わるまでに書けば問題ないし、普段から使用している教室だからこそ落ち着いて書けるというのもあるはずだ。 私は道具を両手で抱えたまま教室へと向かった。ダンスの音楽や応援の掛け声が四方八方から聞こえてきて、これぞまさに青春という感じがする。応援に出る宮内君はその練習を頑張っているだろうし、宗馬君の通っている中学校もきっと体育祭シーズンで、同じように練習を頑張っているのかもしれない。だったら私も頑張らなければ。 教室に入ると、案の定誰もいなかった。書くスペースを確保するために机を前の方に移動させ、もらった新聞紙を敷いてからその上に1枚の布を広げてみる。思っていたよりも面積が広くて書きがいがありそうだ。 布を睨みつけるようにして見ながら、文字の大きさや感覚をイメージする。初めて書く文字の時はいつもそうしているのだ。たくさん書いて体に覚えさせる方が効率がいいんだろうけど、今回の場合は全てが一発勝負。念入りにイメージトレーニングをするに越したことはない。 筆や墨の準備をして、いつもより慎重に1画目を書き始めた。無地の布に私の字が書かれていく。威風堂々。なんとなく情熱を感じる四字熟語。楷書よりも行書の方がかっこよく見えるんじゃないかと思い、私は筆の勢いに任せるようにして書き連ねた。 こんな風に文字でなら表現できるのに、どうして言葉では表現できないのだろう。気持ちをちゃんと口にすることができたら、もっと生きやすい日々を送れるはずなのに。決して今が生きづらいというわけではないけど。 集中力が切れないうちに5枚分全てを書き終えて出来栄えを見ると、それなりに上手く書けたような気がしてホッと胸を撫で下ろした。気になる箇所がないわけではないけど、パッと見は分からないだろうから黙って目を瞑っておこう。 まだ練習が終わる気配はないため、しばらくはそのまま放置して自然に乾かすことにした。窓に近づいて外を見ると、太陽の光が容赦なく照り付けるグラウンドに、私とは違うクラスの生徒たちがたくさん集まっていた。書いている最中でも太鼓の音やダンスの曲が聞こえていたから、またそれらの練習でもするのだろう。 熱心だな、なんて他人事のように思いながらその風景を眺めていると、「星羅」とまだここに戻ってくるはずがないと思っていた宮内君の声がしてドキッとしてしまった。不意打ちは勘弁してほしい。しかも最近は彼に名前を呼ばれるだけでドキドキしてしまうから余計にやめてほしい。 なんだか自分がいろいろな意味で重症に思えてきた。この胸の高鳴りを収められるような処方箋すら必要なんじゃないだろうか。切実に。 「こんなところで何して」 振り向いた先にいた宮内君は不自然に言葉を止めると、あるものを見て驚いたように目を見開いた。無論、それは威風堂々と書かれた応援の旗で使う布だ。ズラッと5枚分並べられているから変な威圧感でもあるのかもしれない。こうして自分もよく観察してみると、確かに圧倒させられる何かがあった。 自分が書いた文字をまじまじと見られるのは恥ずかしくて仕方がないけど、今更足掻いたって意味はなかった。己の心情より書いた作品の方が大事な気もするのだ。遅かれ早かれ最終的には多くの人に見られるのだから、宮内君1人で恥ずかしがるわけにはいかない。 「た、頼まれて、書いたんだけど、どう、かな?」 それと、もう練習は、終わったの? とさらっと付け加えるようにして尋ねると、今は休憩中だと返された。10分から15分くらいの短い休憩のはずなのに、わざわざ教室に戻って来たということは、何かを取りに来たということだろうか。それだったらあまり長くは話せないかもしれない。いや別にたくさん話したいという意味ではないけど。 図書室での2人きりとは少し違うような空気が漂っていて、私は少し緊張してしまっていた。平常心を装えば装うほど緊張が増しているような気さえする。まだ気まずさを拭えていないのだろうか。 「初めて見た時と比べて上手くなってんな」 「そう、かな」 以前宮内君は、私の書道の字に惚れたと話してくれた。ちょっと今でも信じられないことで、夢だったんじゃないかとさえ思う出来事だ。 何の字のことを言っているのかは分からないけど、今の字と比較ができるということは、当時の私の字を今日までずっと覚えていてくれたのかもしれない。それくらい宮内君の胸を打つことができていたのなら、それはとても嬉しいことだし、もっと頑張ろうって気にもなる。心底単純な頭だ。 「パネルリーダーに星羅に頼むよう言っといて正解だった」 本当は俺が直接言うべきだったんだろうけど、と宮内君は布の前でしゃがみ込みながらそう付け加えて、じっくりと味わうように私が書いた字を眺め始めた。目に焼きつかせるかのように真剣な眼差しで。 宮内君がパネルリーダーに私に書かせるよう頼んでいたことには正直驚いてしまったけど、彼の配慮がなければ私は自分の特技を生かすことができずに終わっていただろう。毎年何も変わらない惰性の体育祭を迎えていたに違いない。 自分でも役に立てる何かがあるって素直に嬉しいし、それを褒められると俄然やる気が出てくるから不思議だ。好きな人に言われたらなおさらそう思う。 「この部分にさ、旗使う人の名前書いたら結構良さそうだけど」 旗の右下部分の空いているところを指差す宮内君は、どう? と私に視線を向けて答えを求めた。私に聞かれても分からない。そう思ったけど、旗の字を書くよう任せられているのは私だ。だからというのは変かもしれないけど、私の好きなように書いてもいいんじゃないかとさえ思えてきた。しかも宮内君の頼みだ。彼が言ったと言えば、みんな納得してくれるだろう。私個人の発想でもちゃんと認めてもらいたいけど。 私は歩みを進めて宮内君の隣にしゃがみ込むと、右下部分に名前を書いた図をイメージした。どうせパフォーマンスでは旗を振り回すだろうから、威風堂々は分かっても名前までは分からないだろう。 「う、うん、いいと思う。えっと、誰が、これ使うの?」 何気なく宮内君に視線を向けると、思っていたより近い距離で彼と目が合い私は飛び退いてしまった。完全に距離感を間違った。どうしてこんな初歩的なミスを。 気まずさや恥ずかしさを感じながらある程度の距離を取り、それから私は膝を抱えるようにして蹲った。故意ではないにしても、距離感が近いことも宮内君が言う期待させるようなことなんだろうか。 「ご、ごめん。距離感、掴めなかった」 とりあえず謝って恐る恐る宮内君の様子を窺うと、彼は何か言いたげな表情で私と目を合わせた。そして、ずっと溜め込んでいた言葉を吐き出すみたいに、ただ一言だけあることを口にした。想像すらしていなかったことを唐突に。私たちの関係が大きく変わってしまうかもしれないようなことを平然と。 「突然で悪いけど、俺、星羅のことが好きなんだ」 2人きりの教室。目の前には私が文字を書いた旗が5枚分並べられていて、外からは太陽の光が差し込んでいた。まるで、私たちにスポットライトを当てようとしているみたいに。 宮内君は私を見つめていて、同じように私も彼から目が離せなくて。ドキドキと、どちらの心臓の音なのか分からない鼓動を感じながら、私たちは静かに見つめ合っていた。 体育祭の練習真っ盛りのこの日、私は宮内君に告白された。想い人でもある彼に。永遠の片想いだと思っていた彼に。そして、夏休み中に告白してくれた宗馬君の兄である彼に。
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