君と私は雲泥の差

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君と私は雲泥の差

1 嫌いな体育の授業を受けるのはあと何回だろうかと数えることがよくあった。卒業までに受けるその授業の残り数を知っては、まだこんなにあるのかと落胆するのがいつものことで。数えなければいいのについ数えてしまうのは、着実に残り数が減っていることを実感したいからなのかもしれない。 4月も後半に入り、花粉症ではない私にとってはとても過ごしやすい季節となっていた。私は春が好きなのだ。 開け放たれた体育館の扉から入ってくる陽気な風を体に受けながら、白線の外側、つまり外野にいる私は白熱した勝負をぼんやりと眺めていた。 スピードの速いボールが相手チームの内野と外野で往復していて、私のチームの内野が狙われていた。今はドッジボールをしている。 もともと内野にいた私は、早速来たボールを避けきれずにすぐに当たり、ここの外野へと秒で引っ越してきたのだ。内野はやることがたくさんあるし、人数が少なくなればなるほど目立ってしまうから、早くに抜けられて良かったかもしれない。 運動が嫌いで、尚且つ私みたいにやる気のないような奴は、さっさといなくなってしまった方が足手まといにならないで済む。無駄に残ってしまう方が精神的にきついだろうし、ただの遊びであってもプレッシャーが付きまとう気がするのだ。私がそれに耐えられるわけがなかった。 早々に外野へと弾き飛ばされてしまえば、後はもう見てるだけで何もしなくていい。傍観してるだけで勝手にゲームは進んでいく。運動が嫌いな人にとって外野は安全地帯と言っても過言ではないのだ。 早く終わらないかなと体育館前方の右上に備えつけられている時計を見ていると、突然肩を押されて驚くよりも先に、ボールをキャッチするような軽い音が近くで聞こえた。 割と強い力で肩を押された私は、崩れてしまったバランスを立て直せずに床に尻餅をついてしまった。格好悪い。 私が尻餅をつこうがどうなろうがゲームの熱が冷めることは絶対になくて、勢いは衰えずに専ら進行していった。 恥ずかしくて俯いたまま立ち上がろうとすると、目の前に私よりも大きな手が差し出された。骨張った指が綺麗だ。 「悪い。加減できなかった」 顔を上げると、クールで落ち着いた雰囲気が印象的で、女子からは絶大な人気を誇る宮内隼人(みやうち はやと)が私を見下ろしていた。差し出された彼の手を掴めば起こしてくれるんだろうけど、自ら誰かに触れるなんてことできなかった。しかも異性だからもっと無理だ。 「あ、うん、いや、えっと、大丈夫」 目を合わせられずに余所見をしながらか細い声でまとまらない言葉を放つ私は、彼の手を借りずに立ち上がって俯いた。失礼な奴だと思われてそう。 宮内君は私のせいで役目を果たさなかった手を引っ込め、人の誠意を受け取らなかった私に文句を言うでもなく、特になんとも思ってないような落ち着いた口調で言葉を連ねた。 「来たボールすら取ろうとしないなら邪魔にならないところにいて。さっき顔面に当たりそうだったから」 「あ、うん、ごめん」 私は彼から離れ、邪魔にならないであろう場所に移動した。外野でも私は足手まといのようだ。 ボールを受けたり投げたりしている宮内君の身体能力はずば抜けていて、おまけに容姿にも優れているからこの人はとにかくモテるんだよな、なんて底辺にいる私とはまるで真逆の彼の背中をぼんやりと眺めながら思った。月とすっぽんの差だ。 さぞかし充実した高校生活を送っているのだろう。彼女もいるんじゃないだろうか。下っ端の私にはそんなことなど別にどうでもいいことだけど。 みんなの羨望の的でもある宮内君から目を離して、私は再び時計を見上げた。残り5分。このゲームが終わったら今日の体育は終わりだろうからあと少しの辛抱だ。 突っ立ったままその時を待ち、相手チームの内野の最後の1人が、宮内君の投げたボールをキャッチできずに床に落としてゲームは終了した。私は何もしてないけど、自分のチームの勝利だった。 勝った人も負けた人もみんな花が咲くような笑顔で、私だけがその場に取り残されているような気がした。いや取り残されているのだろう。別にいつものことだ。 チームと勝利を分かち合うことなく嫌いな体育を終え、私は誰よりも先に体育館を後にした。 さっさと更衣を済ませ、3年目にもなる使い古されたスクールバッグを持って教室へと続く道を歩く。左右交互に見える自分の足先を見ながら、いつから自分は俯いて歩くようになったのだろうと不意にそう思った。 前を向いて歩くことなんてほとんどなくて、私はいつも下ばかり向いていた。ほぼ無意識に。自分に自信がないから、それが表面に出てしまっているのかもしれない。 俯いた先にある自分の足は、ゆっくりと階段を上り始めた。1年の頃は若干息を切らしながら4階まで上っていたけど、2年3年と学年が上がるにつれて階は下がっていくため、3年になった今は随分と楽になっていた。 次の授業が体育のクラスとすれ違いながら2階にある3年1組の教室に入り、席替えで運良く窓側の一番後ろの席になったそこに座って外の景色をぼんやりと眺めた。 何気なく雲の動きを目で追っていると、ふと宮内君に肩を強く押されたあの感覚が蘇った。その部分である左肩に触れてみて、やっぱ男子って力強いな、なんて当事者なのにまるで他人事のようにそう思った。 女子からの人気がえげつない宮内君に触られたことで、下っ端のくせにとか何とか陰口を言われてそうだけど、できるだけ気にしないよう努めた。 廊下から話し声がして、再び喧騒に包まれる教室にほんの少しのショックを受けながら、私はそれに耳を貸さないように別のことを考えた。考えることなんてないけど、無理やり思い描いて。 笑い声を発しながら楽しそうに教室に入ってくるクラスメートには目を向けずに、私は適当なことを思いながら外の景色を眺め続けていた。 しばらくしてから、机の上に何かを置かれた気配がして咄嗟に顔を向けると、そこには紙パックのジュースが置かれていた。一体誰が。顔を上げて確認してみると、私を見下ろす宮内君と目が合った。 「慰謝料」 「え?」 突然言われた言葉にポカンとする私を無視して、彼は私の隣の席に座るなり、机の上に置いたジュースと同じものを飲み始めた。もう既に自分のことを見ていない宮内君の横顔を見つめてから、私は机の上に置かれた彼と同じ飲み物に視線を向けた。 肩を押して尻餅をつかせた慰謝料だろうか。凄く大袈裟だけど律儀だな。私はなんともないのに。 有り難くとは違うけど、同じものを飲んでいる時点で返してくるなと暗に言っているように感じ、私は紙パックのジュースをスクールバッグにそっとしまって再び外を見た。もうそれが癖になっている。 右側からは男子数人と会話をする宮内君の声がした。とても気怠そうだ。 クラスの目立つグループに属する宮内君と隣の席になってしまったことに関しては、とても運が悪い気がした。別に彼のことが嫌いなわけではないけど。 ぼんやりとそんなことを考えていると、授業の開始を知らせるチャイムが鳴り響いた。あまり得意ではない英語の授業が始まってしまう。 マイペースでおっとりとしている英語教諭はまだ来ず、クラスメートは特に慌てた様子もなくのんびりと自分の席へと向かっていた。 人の声で埋め尽くされていた教室が静かになり、近くの人とひそひそと話す声が響いて聞こえる。私は依然として外を眺め、時が過ぎるのを待った。 その時、横から視線を感じてチラッと顔を向けると、なぜかこっちを見ている宮内君と目が合い、私は咄嗟に顔を背けた。 どうしてこっちを見てるんだ。私に何か用でもあるのか。でもそれだったら普通に声をかけてくるはずで。 慣れない視線にドギマギしながらもう一度横を見ると、既に宮内君は私から目を離していて、頬杖をつきながら何やらノートにペンを走らせていた。 何を書いているのだろう。自主勉強だろうか。もしそうなら真面目だな。 視線が合わないことをいいことに、彼の手元をバカみたいに凝視する私。側から見たらただの変人だ。 それからしばらくして英語教諭が顔を出すと、宮内君はノートをパタンと閉じて机の中にしまった。 結局何を書いていたのかは分からなかった。知ってどうということでもないけど。 ふいと宮内君から顔を背けた私は、体育よりはマシだけど、やっぱり退屈なことには変わりない英語の授業を、いつもの惰性で受けたのだった。
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