1 手紙

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1 手紙

 一通の手紙から始まった―。  「私は未来を知っているが、何もわからない。」という言葉でそれは始まっていた。  前略 私を知っているだろう人。  私は未来を知っているが、何もわからない。変な話だと思うだろうが、事実なのだからどうしようもない。  わかりやすく説明することは不可能だが、そう、例えば、ここに「A」という世界がある。「Aという世界」は確かに存在しているが、今のこの世界ではないことだけは確かだ。つまり、「Aという世界」と今我々がいる「世界」は別のものだ。  そして、私は「Aという世界」の未来を知っている。産業革命後急速に社会は発展する。そして一人の独裁者が世界中を巻き込んだ戦争を始める。そのあとはどの時代の独裁者と同様の末路なのだが、とにかく悲惨な未来なら知っている。そのあとの復興と再生も。  だがそれはこの世界の話ではない、「Aという世界」の話であって、この世界に通用することでないだろうし、同様の未来を進むかどうか分からない。  けれど、あなたがやっていることはそれ―つまり、産業発展によってもたらされる恩恵と同等、いやそれ以上の負の遺産となるべきもの―を促すに十分すぎるものだ。  あなたの工場で排出されている汚染物質によりオッドー川は死の川となる。そのせいで下流域に住んでいる人々―チムニーの住民たちのことだけど―彼らが最初の犠牲者となり、その次にあなたたちまでもがや、に侵されるようになる。  あなたがこの国にもたらした異常な発展によって近隣との格差を悲観した、ご近所さん―血の気の多い国民が住んでいる国―が不公平だと、理不尽にも戦いを挑んでくるだろう。  そうなる前に忠告する。その汚染物質の改良を進めること、そしてもっと住みよい社会に貢献すること。そうすれば、あなたの名前は後世に長く語り継がれるだろう。英雄として―。          善良な市民 タニクラ ナル  ロバート・アームブラスト男爵は手紙を読んで目の前に座っている紳士を見た。彼の名前はリチャード・ゴドフリー。ゴドフリー鉄工所の社長だ。成金が増えている中で彼は比較的質素で、堅実でそして痩せていた。 「この手紙が?」  ロバートが聞き返すと、ゴドフリーは首をすくめ、 「私だって気にする必要はないと思っている。私の会社以上の汚水を出している工場はあるわけだし。他の会社にも同様の手紙が送られてきているという話も知っている」 「ほかのところにも?」 「ああ、ですが皆、無視を決め込むそうだ」 「でもあなたはそうしないと?」 「最初は無視をしようと思ってた。そこに書いてある、公害などということを気にしていては発展はありえんからね。そんなことで気弱になったわけじゃない。その名前ですよ」 「タニクラ ナル。変わった名前です」 「そうだ。そして、有名だが、誰もが知らない人の名前だ」  ロバートは鼻で小さく笑った。それにゴドフリーは不快な顔を向けた。 「失礼。だが、この手紙の書き出しといい、あなたといい、まるでなぞなぞのようじゃないですか、知っているが知らないもの。有名だが、誰も知らない人なんて」 「……たしかにそうだが……。なぞなぞのように、いつかは答えが聞けたらいいのだがね。君が知らないのは、君が若いからだろうし、そういう目に遭ったわけじゃないからだろうけれど、その道ではとても有名なんですよ」 「ギャングですか?」 「ギャング?」  ゴドフリーは甲高く繰り返し、吹き出し声を出して笑った。それが彼の異常な興奮状態を示していて、ロバートは近くのウイスキーをグラスに入れゴドフリーに手渡した。  ゴドフリーはそれを一口口に含むとイスに深く腰掛け、ため息を落とした。 「失礼。……ギャングとかそういうものではないよ。彼女は」 「女なんですか?」 「ああ。少女……老婆だが少女だ」  ロバートが眉をひそめた。―またなぞなぞのような言葉だ― 「彼女は退魔師だよ」 「退魔師? 退魔師、というのは?」 「男爵、あなたは本当にいい人だね」  ゴドフリーの言葉にとげを感じ、ロバートは眉をさらに顰める。 「褒めているんだよ。できることならば、彼女の名前を知らずに年取ることをお勧めするね。という相手だよ。この国ではもう、何年も、何十年、いや、何百年も昔に伝説として紹介されている妖魔を退治しているんですよ」 「妖魔? あの吸血鬼や、包帯男のあの絵本に出てくる?」 「そう。あれだよ」  ロバートはゴドフリーを見返した。 「私だってね、吸血鬼なんぞがいるとは思わんよ。見たことはないのだから、でもね、そういうのとは違う、何というか、とにかく、彼女の説明を又聞きの、さらに又聞いた話では、妖魔というものに乗り移られた人間が悪さをしていて、……私だって信じてなんぞいないさ」  ゴドフリーは頭を振って、ウイスキーを口に含んだ。 「不思議なことが起こると、その、タニクラ ナルという少女が現れて、災いを取り払ってくれる。何かトリックがあるのだろうと思うけどね、だが、彼女にその災いを取り除いてもらった人々は、頑なに彼女のことを話したがらない。別に話したところで何かがあるわけじゃなく、。というのだ。ただなんとなく、解決した。ということらしい」 「ゴドフリーさん、私の理解力がないのが悪いのでしょうけど、それじゃ説明には、」 「解ってる。だが、そう聞いたんだよ。私が聞いたので覚えている話しだが。強烈に覚えているのは、その当時私も似たようなことが身近にあったおかげでね。  それというのも、一人の男がいるんだが、別にいい男でも、金を持っているわけでもない。男から見てうだつの上がらないそこら辺にいる男なんだが、やたらと女にもててね。女がいろいろと貢ぐ。金だけじゃなく、間男としても。だけど男にその自覚がないから困ってた。  男は女の親切をただ受けているだけなんだよ。道を歩いてて、腹減ったと思えば、どうぞと料理が出てくる。眠いと思えばベッドが用意され、添い寝をしてくれる。ただそれだけだ。男が何か目的をもって女たちに近づいているんじゃなくて、女が自ら寄っていくんだよ。問題になったのは、若い娘だけじゃない、亭主持ちも、死にかけの老婆もみんなそうなんだから、男は、村中の男たちに牢に入れられたが、女たちによって出され、女たちは、彼を理不尽にも牢に入れた男たち、つまり、恋人や、亭主や、父親を襲ってしまったんですよ」 「おそ、襲うって、恋人だったり亭主だった相手をですか? それはその男が?」 「いいや、彼は何もしてないんだよ。ただ、黙って牢にも入ったし、女性たちに対して何も言わなかった。だけど、女たちは包丁や、いろんなものを持って村にいる男を襲った。そんな時に現われたのがこのタニクラ ナルという少女だった」ゴドフリーはウイスキーをつぎ足し、ゆっくりと口に含んで続け「少女といっても見た目が17歳だけど中身は忘れた。まぁ、見た目が若い女性は多いのでその類だとは思うのだがね、やけに昔のことを詳しく知っているので、彼女が言う、百やそこらはゆうに生きているさ。という言葉を信じてしまいそうになる。ただ、宋国の大学を出ているという噂なので、相当頭がいいんだ。だから、ただ単に物知りでいろんなことを知っているだけかもしれん。  とにかく、その少女が現れ、何かしらのことを、そのモテていた男に施すと、その途端、女たちの興味は失われた。逆に、うだつの上がらない男に見向きもしなくなった。その場にいた人が何をしたのかと彼女に聞けば、「色魔」という妖魔を取り除いただけだ、といったそうだ」 「色魔?」 「ああ、妖魔の中には、その、性欲の強いものがいて、ただし、性欲も、いろいろあるそうで、その男の、うだつの上がらない男の、女にもてたい。という欲求に感化され、心に入り込まれたのだろう。という説明だった。私はこの話を半分呆れ、半分は、本当だとすると、と考えてしまった」  ゴドフリーはグラスを両手で包み、その琥珀色の水に視線を落とした。 「私の身近な、この、色魔に憑りつかれた男のような人、それは、私の母だがね、私は成金だ。新聞などでは存分に過去を暴かれている。母親は娼婦で、私は父親が誰か解らない。  だからこそ、私は一生懸命に働き、世間を見返すためだけに努力した。11歳で母親のもとを出てから一度も帰っていなかった。  40歳を過ぎたころ働いていた私のところに、まだ元気だった母親の世話をしている。という看護師がやってきた。母親はその時70歳を少し過ぎたあたりのはずだが、見た目は20歳か30歳か、いい女ぶりのままでいまだに男が群がってきていたが、一週間ほど前、階段から落ちて、足を折った途端、驚くほど老けてしまったと。それまでは黒黒とした髪をして、肌など赤ん坊のように透明で張りがあったのに、あっという間にくすみ、しわだらけになったというのだ。そんなときにこの話を聞いた。  私はモテなくなった男の話を冗談気味に話していた人に聞いたんだ、その、色魔に憑りつかれていた男はその後どうなったかと、そしたら、その男は本来の姿、そう、私の母と同じく、憑りつかれている間は若々しかったのに、それが無くなった途端、本来の歳、いや、それ以上に老け、あっという間に死んだといったんだ。母も、看護師が私の家を訪ねてきた翌日、老衰として処理されそうなほどの枯れっぷりで死んでいた。  だから私には記憶があった。タニクラ ナル。という名前を。だが他の人たちは彼女を知らないから無視できる。だが、私は知っている。知っているんだよ」  ゴドフリーは喘ぐようにそう言って肩を落とした。 「ゴドフリーさん?」 「私も何かに憑りつかれているのだろうか? だからこういう手紙が来たのか? 私は、母と同じく死ぬのだろうか? あの、枯れ木のような姿になって?」  ゴドフリーにウイスキーを飲ませ、家族に託した。あのままロバートが居てもどうにもなりそうもなかったからだ。 「と、とにかく、調べてみますよ」  と立ち上がったが、何をどう調べるのかまるで分らないし、ただのいたずらだろうと思う反面、ゴドフリーが話をしていた情景が目の前に浮かび、ぞっとするほどの現実的で、ロバートは忘れようにも忘れられそうもないこの変な事柄をとにかく忘れようと努めたが、どうもそういうわけにはいかないようだった。  コートの襟を立ててポケットに手を入れたとき、いつ入れられたのか分からないが、あの、タニクラ ナルからの手紙が押し込まれていたのだ。  ロバートは立ち止まり身震いを起こした。だが―どうしろというんだ? 何をしろと?―さっぱり見当がつかず、ただただアパートに向かって歩いた。  街は紅葉に彩られていて、冬の到来をそろそろ知らせるように風が冷たくなってきていた。  ロバートは川べりを歩いていた足を止め、対岸を見た。  産業革命の象徴のような場所。様々な工場から煙突がにょきにょき立っているのでチムニーと呼ばれている地区だ。その工場で働く労働階級でも底辺の人々があそこの工場同士に空いた隙間に住み着いて日雇いの仕事にありついて生きていた。まさに、底辺で支えている人々の住み家なわけだが、改革や革命にはつきものの「犠牲」だと思う。彼らの健康など気にしていては発展はない。確かにそうだ。そもそも違法に住み着いているほうが悪い。そういう話なのだが―。ゴドフリー氏はそれをそのまま捨てておけなかった。タニクラ ナルという名前の所為で。一体何者なんだ? なぜゴドフリー氏はそれほどにこだわるのだろう?   話しを聞いた限りでは確かに面白い話だと思ったが、それ以上の感想はなかった。ゴドフリー氏が恐れるのは、タニクラ ナルと関わると死を迎えると思っているからか? だが氏自体が、呪いの類をかけられることはない。と言っていたじゃないか。なのになぜあれほど怖がるのだろう? そんなに気にするようなことなのだろうか? それとも、公害について氏が気にしているので気になったか、 「たぶん、それだな」  ロバートは納得したようにつぶやいて玄関のカギを回した。   
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