4 黒い影

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4 黒い影

 ロバートがタニクラ ナルとの面会の不快感を忘れてしまったとしても、ロバートがこの場を立ち去る理由にはならなかった。ロバートはツイスターを食べ、お茶を飲み、軽く腹を満たした後でもそこを動かなかった。帰ろうとか、別の所へ行こうという思考が働かず、かといって、なぜここに立っているのか? と聞かれるとよく解らなかった。というより、そういう考えに至らなかったのだ。ただ、なんとなく立っていた。  通りには花の屋台、別の食べ物の屋台、観光客、十人、いろんな人が行き交っていて、見ているのにはちょっと楽しかったのだ。  普段、ロバートはメドーと呼ばれる郊外に屋敷と領地を持っていてそこで暮らしている。父親が病気になり、後を継いだ兄が事故で亡くなったので、次男のロバートがアームブラスト男爵を引き継いだ。そう、ゴドフリーに会いに行ったのも、父親と懇意で、継承した暁には支援者の一人となるゴドフリーに挨拶に行ったのだ。この提携はいろんな貴族と企業間でよくあるものだった。貴族とは言え貴族称号しか持たない貴族が多くなり、その称号を盾にしたい企業と、その企業の援助を期待する貴族との提携だ。ロバートの場合はただ父親とゴドフリーが大学時代からの親友というので、他の支援者たちとは少し違うのだが、それでも、企業的にも男爵の知り合いというのはいいことだし、男爵家としても、企業と知り合いとなれば何かと便利な点も多かった。  ゴドフリーはロバートが小さいころから家によく遊びに来ていたし、病弱な父親に代わってよく遊んでくれた、第2の父親のような人でもあったから、彼の憂鬱そうなことを排除したかった。 「……憂鬱そうなこと?」  ロバートはつぶやいて、ふいに身震いを起こした。気付けばすっかり日は傾き、四時になろうとしている。この頃日の入りが早くなってきたせいでもう薄暗く、街頭に火が入っている。  ロバートはもう一度身震いをし、襟元を抑えて首をすくめアパートのほうに体を向けた時だった。  それは警察の分署に背を向けることになったのだが、その瞬間耳に入ってきた。 「もういい加減、」 「でも、姉はどこにいるんです? お願いです、姉を探してください。姉は男の人と逃げるなんてことはなかったんです、ちゃんと調べてください」  ロバートは振り返った。  警官に縋り付くように詰め寄っている人は、とてもきれいな人だった。栗色の髪、労働者らしく茶色のコートと、色の褪せたスカートが裾から見える。腕に掛けている鞄にはマクレガー縫製工場のロゴがあり、マクレガー氏が運営している縫製工場の縫製師だと判った。  警官は毎日のことに本当にうんざりしたような顔をし、あっち行けと手を振って彼女を払った。  彼女はこれもいつものことなのだろう、彼に言っても仕方がない。と肩を落として歩きだした。向かっているのはイーストタウンの下町のほうだった。  ロバートは彼女のあとをついていった。よくよく考えれば、下町を抜けたほうがラリッツ・アパートには近いのだ。ただあまり足が向かないのは、下町に行く気が起こらなかったからだ。ひどく混雑した町で、チムニーほどではないにしても、あまり衛生的だとは言えない道だったからだ。  だが、今日は何も考えず彼女のあとを追った。追ったからといってどうする気はなかった。だけど、追わずにはいられなかったのだ。彼女の真剣な顔、どこまでもきれいな顔にひかれたのだ。  彼女は住宅地のほうに入った。明かりのついた家々が多くあるが、人通りは少なくなった。この先に公園がある。という街灯のところで彼女が振り返った。 「何かご用ですか?」  彼女の覚悟を決めたような顔にロバートは一瞬ひるんだ。追いかけてきたし、それによって怖い思いをさせたことにいまさらながら気づき、弁解とか、言い訳とかを口にしようと口を開けたが言葉が出ない、とにかく何かを言おうと思った時、公園のほうから彼女に向かってくる黒い影を見た。  あの影は何だ? と分析する間などなかった。とにかく彼女に駆け寄ると、彼女の腕を引き寄せることが先だった。  影は目標物を無くし、道の真ん中まで通り過ぎて唸り音を当てて振り返った。おかしいものだが、頭らしきものが動いたので振り返ったのだろうと判るだけ。黒い影が何かに似ているなら説明がしやすいのだが、強いて言えば、大きな黒い布をかぶったもの。だが、それは布の様に物体でなく半透明で、かすかにその体を透けて向こうが見えるのだ。だから、物体というのも変だが、だが、靄や霧のようなものが塊となり動いているのだ。しかも唸っている。  ロバートは彼女を背後に隠し、 「一体何だ、」  できる限りの低く威嚇的に声を出すと、それはふわっと消えた。それこそ、靄や霧が消えるような感じだ。あたりには全くそれの痕跡などなかった。 「あ、あの、」 「あれが何か、ご存知ですか?」  ロバートの冷静な言葉に女性は首を振った。 「変なものです。……よかったらお送りしますよ、私の家はこの先を三ブロック進んでいかなきゃいけないのだが、」 「わ、私もです……ご一緒、願いますか?」 「もちろん」  ロバートはちょっとした幸運に頬が緩むのを必死で隠していた。先ほどの奇妙なものが気にならなかったわけじゃないし、気持ち悪さは残っていたが、この美人と知り合えたことに比べたらたいしたことではなかったのだ。 「私はこの辺りには明るくないのだが、あれはよく現れるんですか?」  ロバートの言葉に彼女は俯き、深く息を吐いた。 「四、五日前から」 「つい最近ですね……何かきっかけとか?」 「解らないんです。気付いたのは、一か月前ぐらいです。最初はあの公園辺りに来て、ふと視線を感じて、見てみたらあんなものがいて、最初は誰かの影がそう見えるのだと思っていたのですが、この、四、五日、徐々になんだか近づいてきているようで、」 「近づいている?」  彼女は頷いた。 「昨日はあの公園の前に立っていて、手を伸ばして捕まえようとするんです。私、道の端一杯を歩いて帰りました。そしたら、今晩は近づいてきたし」 「薄気味悪い」 「あ、あれは、人でしたか?」 「……それは、」  ロバートは返答に困った。人かもしれないと思うのは、それが人の形のように見えなくもないこと、そしてそれが、人の身長ぐらいの高さで、恰幅もいいので、一見すると人に見えるが、先ほども言ったように透けているのだ。人は―透けてはいない。だから、あれは人でないのだろうが、 「奇妙な物体です」  ロバートの言葉に彼女が身震いを起こした。 「あ、すみません。怖がらせたようで」 「いえ、本当に、奇妙で……怖いんです」 「そうですね」 「最初のうちは、なんだか遠くにいて、私が家に帰ると消えて行ってしまっていたんですけど、昨日などは、窓から見たら道の向こうから見上げているような、もう、怖くて、」  ロバートの想像でもその恐怖は容易にできた。ぞっとするようなものが部屋を見上げていたらやはり気持ちがいいものではない。だからと言って引っ越したり、誰かを頼っていくというほどの余裕はないだろう。 「ご家族は? いや、ご家族の誰かと一緒なら送り迎えを頼むこともできるかと、」 「いえ、私は出稼ぎで、……姉がいたんですけど、」 「さっき、警官に言っていたお姉さんですか?」  彼女の顔が赤くなった。 「そ、そんなに大声で話していました? 私?」 「いや、なんだか耳に入ってきたので、……お姉さんどうかなさったんですか?」  彼女は言いにくそうに首を傾けた。 「あ、あぁ、失礼、えっと私は、」名刺を差し出す。擦りたてで手渡しした相手はまだ片手に収まるほどだ「ロバート・アームブラストです。ついこの前跡を継いだばかりで、どうも自己紹介の段取りというのか、そういうもののタイミングが未熟で、」 「まぁ……男爵様……」 「家がそうであって、僕は、あ、いや、私はどうも、母や姉に言わせたらそれらしくないと……、田舎の牧童だとよく言われます」  彼女はくすくす笑い、 「エレノアです。エレノア・マルソンです」  といった。  彼女の優しい栗色の髪が会釈に応じて揺れた。  外套の明かりでなんだかほっとした、見えないものが見える安心だろう。そう思ったら急に、このまま送り届けるだけというのは惜しいという気がした。 「警官ではないし、役に立たないだろうけれど、話をすれば気が晴れるかもしれない……あ、食事を……食事をする相手がいたならこのまま送り届けますが、一緒にどうですか?」  ちょうどいい匂いがする店の前だったせいもあって、エレノアの顔に赤みがさし、 「一緒に食事をする相手は居ませんが、お給料前で、」  と恥ずかしそうに言った。 「あ、いや、これは私の誘いで……どうでしょう、たまには、田舎貴族の独り者の、さみしい食事に、として同席しませんか?」  よく頭が動いた。と感心するほどだった。いつもならばこんなことを言わないし、第一女性に積極的になどならない。家が、長兄の後三人女が続いた。兄とはかなり年が離れていて、兄は居たがほとんど会ったことのない兄だったから、つくづく姉たちによくからかわれたりした。そのせいもあって、女というものに少々奥手だったり、遠慮がちだったりするのだ。だから、いま彼女にしゃべっているこの口は誰からか借りたのかと自分で驚くほどよく動いた。  エレノアは少々戸惑いながらも、ロバートの警戒してもしようがなさそうなほど人のよさそうな顔に頷き、一緒に店に入って、同じものを食べることにした。  肉は少々硬かったがそれほど悪い味ではなかった。エレノアも、「こんなにおいしく食事をしたのはいつぶりかしら」と言ったので誘ってよかったと思った。  食後のお茶と、スコーンが運ばれてきたとき、ふとロバートはポケットに手を入れた。煙草を飲む習慣がないのでポケットに手を入れることはなかったのだが、本当に自然でなぜ入れたのかよく解っていないが、手を入れてその指に当たった違和感にそれを取り出す。  先ほどタニクラ ナルにもらった小箱だ―と言っても、ロバートには、この箱を誰にもらったもので、なぜ持っているのか解らなかった。 「きれいな箱」  たしかにきれいな箱だった。木の箱だが、上面に貝殻を貼っていて青と緑に光っていた。  ロバートははっとしてふたを開けると中のブローチを取り出した。 「これはとある人からお守りだと言われてもらったものなんですが、」  銀色のブローチには、ブドウの房がエンボスされていた。少し磨かなければ安っぽい代物になりそうなもので、正直高そうには見えなかったが、一瞬、白銀の代物? と見間違えるほどそれは光っていた。 「よかったらこれを持っていませんか?」 「え?」  エレノアは驚いて身を引いた。 「いや、正直これを渡す相手をあなた以外に思いつかないんですよ。たぶん、身を守るにはとてもいいものだとは思う。思うけど、胡散臭くもある。そう、胡散臭いんですよ。でも、これを家に持ち帰ったらと思うとね……、面倒で」 「でも、私たち、」 「会ったばかりなのに、……たしかに変だけども、なんだろう……あの黒い影を思い出すたびにこう、もやもやするというか、不快感が増すというか、だからと言って、私が今後あれに遭遇することはないだろうが、あなたは……解らない。  それでは、私にできることは、毎日送り迎えをするか」  と言ってロバートが笑う。 「それは、余計におかしい話でしょ?」 「そうですわね」  エレノアも賛成して笑った。 「そうなると、何かないかと考えたとき、そういえばお守りだともらったなと思いだしてね。正直、これがそんな効果があるとは思えないのだが、気持ちの問題ですよ。いかがですか? もらってくれませんか?」 「……でも、こんなお高いもの」  ロバートはふと頭をよぎって、両手を上にあげてひらひらさせながら、 「あ、別にこれで安全だからと言って怪しい物を買わそうとか、そういった詐欺でもないですよ」  その行動にエレノアは吹き出し、 「信じてますわ。男爵はそんなことはなさらないと思いますわ」 「ロバートでいいですよ、男爵と言われてもね。それに、……そうだ、友達としてもらってください。友達が、友達を心配して買ってきた土産。濁国の怪しい土産だと思って」よく濁国などと口がつく。と思いながら、ロバートは微笑んだ。 「まぁ、」 「それだから、ロバートと、そして変な敬語もなしで」  エレノアは目の前の新人の男爵の人柄に微笑み、ブローチを素直に受け取った。 「箱もよかったらどうぞ、これだけあってもしようがないのでね」  と箱も手渡され、エレノアはその美人の笑みをロバートに向けた。  その時、店の窓からじっと黒い影が二人を見ていることに二人は全く気付かなかった。  エレノアのアパートはイーストタウンの7番通りにあった。まだ比較的治安がいいが、街灯の数はかなり少なかった。アパートの部屋に明かりがつき、窓を押し上げたエレノアが手を振るのを見て、ロバートは家に向かった。  エレノアはロバートからもらった箱を開けた。本当に白銀に光っていた。あまりにもきれいで手にしてランプに翳してその光を天井に照らした。もし音があるならキラキラと言ってそうなほどの輝きだった。 「とても素敵な方だったわ」  とはいえ、男爵がこれから社交界で忙しくなれば全く会うことなどないだろうと解っていたけど、エレノアはロバートにまた会いたいと思った。これが芽生え始めた恋というものかどうかは定かではないが、もし恋になりそうならばなってほしいと願わずにはいられなかった。  ロバートは気分よく7番通りを通り抜け、そのまま北上してラリッツ・アパートへと帰ってきた。  玄関わきのフックに帽子とコートを掛けると、応接室から咳払いが聞こえたので、応接室に行けば、サミュエルが今年最初の火入れをした暖炉前に座ってコーヒーを飲んでいた。 「おお、寒かったよ、外は」 「そうかい?」  手をすり合わせながらロバートは定位置として置かれている深緑の布の張った椅子に座る。 「何だかとげのある言い方だね?」  ロバートがサミュエルのほうをちらりと見た。 「楽しそうだからだよ。何かいいことがあったような感じだ」 「……そうだね、いいことだよ。……でも、なぜ僕はあそこにいたんだっけ?」  ロバートが唸りながら首を傾げる。 「あそことは?」 「いやぁ、フォグタウンのところだよ、そこの屋台でお茶を飲んでいたんだ。何しに行ったんだっけか?」  サミュエルはロバートをちらりと見た。うそや、冗談を言っているわけではなさそうだと判断した。タニクラ ナルの出したお茶に何か入れていたような気配はない、だが、ロバートはタニクラ ナルのことを忘れているようだ。なぜ忘れているのかよく解らないが、もしかすると、そのほうがいいのではないかと思えた。それは直感的なものなので、理由はなかった。 「どこかへのあいさつの帰りじゃないのかい?」 「……たぶんそうだな、いろいろ行って忘れてしまったけれども、とにかくそこでツイスターも食べたよ。なかなかうまかった。で、帰ろうと思った時、警官に詰め寄っている人がいてね、」 「詰め寄る?」 「そう、懇願していたんだよ。お姉さんがどうとか……こうとか言って、」  サミュエルが首を傾げる。  ロバートは気付いた。食事中には姉たちの愚痴を話したり、食事の話をして楽しく過ごした。彼女が何を懇願していたかなど聞かなかったことを。 「彼女が何を懇願しているか聞かなかったんだね?」  ロバートは頭を掻いた。 「助けになりたいと誘っておきながら、聞いてない」  サミュエルは吹き出した。 「でも、君と一緒に食事をして気分が晴れたんじゃないかな?」 「だといいけども、」 「きれいな人だったかい?」  ロバートの顔が赤らむのを見て返事の代わりになった。 「だが、君にしてはよく食事に誘ったもんだ」 「それが、変な影に……、そう、変な影が彼女に襲い掛かったんだよ、ちょうど7番通りに公園があるだろう? あそこの街灯は少しだけ周りより暗い、あそこ辺りで黒い影が、それが霧とか霞のように向こうが透けていて、だけども、何かの物体のようでね、それが彼女に襲い掛かったものだから、とっさに彼女を背後にかばったら、それはどこかに消えていったんだが、そのまま家に帰すのはと思って、送っていく途中に店を見つけたんだよ。  変なものだった。とても不快感を感じてね、そしたら、ブローチがあって、……なんで入っていたのか解らないのだが、とにかく、お守りとしてもらったらしくって、それをプレゼントしたんだ。一個しかなかったから、家に戻っても、誰にあげればいいか解らなかったしね」 「そうかい、よかったじゃないか、彼女にとても似合うんだろうね」 「そうだね。でも、彼女はああいう光物よりも素朴なもののほうが似合いそうだったが、」 「名前は聞いたんだろうね?」 「あぁ、エレノア・マルソン」  サミュエルはほくそ笑んだ。 「な、なんだよ」 「君はすっかり彼女に夢中なんだね」  顔が火を噴くほど赤くなっているとロバートには分かった。そしてそれを訂正しても仕方ないほどだということも、 「君は、」 「賭け事はできないよ、どうせ」
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