1.書店-その片隅で-

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1.書店-その片隅で-

 その場所は、新宿から黄色い電車(※時々銀色だったり、ネズミ色に赤い線が入っていたりする場合もある)で三十分もかからない程度の距離に位置していた。  具体的には、特急、快速、急行、準急、各停といったように、かつてはむやみやたらに沢山あった列車種別の中で、上位種の方たる急行に乗車したとして、電車と電車が連なることによる渋滞などがそんなに発生しなかったりならば、おおよそ新宿から三十分を切るくらいの距離に位置するであろう都市。といったところなのだ、そこは。  その街は、都市部への通勤には極めて便利ではあるがしかし、代償として発生する朝夕の混雑ぶりはなかなかにハードモードなものがあった。一極集中も、程々がよろしいのではなかろうか。少なくとも、地方を衰退させてまで成すべき事ではないはずだ。大都市というものは、地方の生き血をすすりながら膨れあがっていくようなものであり、何らかの改善が必要では無いかと考える。  ここはそんな、特にこれとって何があるわけでもないというような、強いて言うならば、武蔵野うどんは歯ごたえがあってしょっぱいつゆとあわさると結構美味いけれど、それを差し置いてもどこか面白味に欠けるベッドタウンだった。しかしながら、彼が生まれ育った場所でもあるのだ。そう、この物語の主人公たる彼が。今日も彼はまた『E』を追い求めて青春を疾走する。 「……」  時刻は夕暮れ時を過ぎ、ぽつぽつと街灯に火が点り始める頃のこと。高校生の彼は、地元の駅近くにある本屋へと寄り道をしようとしていたのだった。上下濃紺の制服姿のまま、かなりの急ぎ足で。  小さな花屋の横にある、これまた狭くて小さな本屋で、自動ドアなどといった文明の奇跡が産み出したハイテックな設備などというものがまるで導入されていないそこは、彼にとっては紛れもなくパラダイスなのだった。きっと楽園というものは、無造作に力を込めるとガラガラガラッと音を立て、昔ながらの古びたガラスの引き戸を開けた先にあるものなのだろう。彼はそう確信する。 (さぁ来たぜ。この瞬間を待ちわびていた。さて、どれにしようかな)  八畳間もあるかどうかといった程度の広さの店内には、ビニールに包まれた本……通称ビニ本と呼ばれる成人誌、つまるところ『エロ本』が所狭しと陳列されているのだった。先述した『E』とはすなわち『ERO本』のことだったのだ!  つまりはそう、わずか数年前に性の目覚めを果たした思春期真っ只中の彼にとってそこには、大人びた綺麗なお姉さんや、ロリータフェイスの可愛らしくも清純な美少女達が眩しいばかりの笑顔を振りまいている姿が表紙を飾っているという、極めて魅惑的な書が多数存在するという、魅惑に溢れた場であったのだ。  そこで彼は限りある予算……現在特に定期的なアルバイトをしているわけでもないので、日々母親から支給される昼食代などをちまちまと浮かせたり、交通費の余りなどをせっせとかき集めるという涙ぐましい努力をしてから、意を決してやってきたのだ。彼は心の底から、今日という日を待ちわびていた。そう。数週間前から、この日が決行日だと決めていたのだ。もはや時は来た。誰にも邪魔などさせはしない! そんなわくわくする一時が今、始まろうとしているのだ。 (よし。全部で三冊だ。それくらいは買える。……はずッ!)  それがこれまでの経験で身に付けた大まかな見積もりだった。何故そんなことを考える必要があるのかって? いざ、購入すべき書を彼の脳内基準で厳正に選定し、会計に持って行こうとしたとしてだ。書店に支払うべき対価……すなわち金銭が足りていなかったらどうなるか? そのような事は言うまでもないことだが、あえて言おう。ものすっごく恥ずかしいことになるのだ! それに尽きるであろう!  少し考えてみればわかることだろう? エロ本をたんまり小脇に抱えてだ。さぁ買おうかナということで、うきうきのるんるん気分でレジに持って行ってみたら『全部で●千円になります』『あかーん!』『あら。お金が足りませんね』って言われるのってのは、一般の買い物であればまぁ、誰でも間違いはありますよねーってな感じに穏便に済むのだが、ERO本を買う際のそれは一体全体何の罰ゲームだというのかッ!? 人生でも一位、二位を争う位恥ずかしい、まさに生き恥と言っても過言では無い状況なのだぞそれはっ! 表紙に『薫風(くんぷう)に揺れるミニスカに濃厚スペルマが飛び散る!!』とか『ミニスカ美少女達のスペルマ情報MAGAZINE』とか、カラフルな色と特徴的な特大フォントで堂々と書いてあるERO本を、すごすごと何冊も元の本棚に戻す作業ときたら、これほど情けなく惨めな物はそんなにないだろ! わかるでしょその感覚っ! わかってくれよ頼むからっ!  ……であるからして、そんな悲惨な状況に陥るのが嫌だから、彼は予算に充分余裕を持ち入念に準備をしてきたのだ。用意周到にこしたことはないのだ。 (選ぶとしたら、やはりJKものなのか? いやいや、まてまて。女教師ものもなかなか捨てがたいぞ。ああ、ブルマものもいっぱいあるなぁ。やっぱりブルマは紺色に限る。きっと手の平で触ると、ちょっとざらざらしているんだ多分。しかし。……バニーガールってのも悪くないし。ううむ。どうするべきなのか)  残念な事に、本の中身を確認したくとも、ビニールでしっかりとガードがなされており、内部情報を読み取ることは不可能なのであった。そのため、全ては表紙から内容のイメージを想像せねばならない。まさにそれがビニ本と呼ばれる所以である。最もまぁ、誰かが触ったかも知れない成年本は衛生的にも気分的にもかなりアレであり、嫌だと思う人は本当にダメなことだろうと思われるのではあるが。とにかく、そんな訳なので購入の選定基準となるのは個人の勘だ。勘が全てなのだ。表紙を見て本の厚みを見て、これだっ! と、ビビビッとくるようなものに出会えるか否かが全てなのである。  そうして彼は時間にして十数分程、物色を続けた。滞在時間がむやみやたらに長くなるのは非常によろしくない。何故ならば、店員さんの『ハハッ。こいつ、ERO本選びにえらい時間かけてやがるぜ! 笑えるぅ!』といったような、嘲りの視線が彼のマシュマロのように繊細で傷つきやすいヤングなピュアハートをちくちくぐさりとぶっ刺すのだ。……実際には、全ては彼の勝手な思い込みであって、店員さんとしては『どうぞ、ごゆっくりお買いものを楽しんでいってくださいね』と、優しく思ってくれているのだろうが、そんな風に考える余裕は、若い彼にはまだないのだった。 (よし。決めたぞ。手始めに俺は、この表紙が紺色ブルマJKの、その名も『放課後倶楽部』を選ぶことにする。そして……)  あ、ちなみに前述したJKとはまさしくJoshi-Kouseiの略な訳であるが、とにかくも彼には次の一手を打つ必要があった。もう一冊はちょっと趣向を変えてみよう。……そうだ。やはりこれがいい。その名も『さくらんぼ通信簿』というタイトルの、アダルトビデオや風俗情報がてんこ盛りの、読んでて……というよりも眺め見ていてウキウキのどきどきのもっこりになっちゃう素敵な雑誌だ。 (これだっ!)  間違いない。この手の雑誌ならば、外れを引く確率が極めて少ないのだということを、彼は過去に幾度となく犯してしまった手痛い失敗から学んでいた。だからこそ、今日のように複数冊購入するうち一冊は必ずその手の品を入れるようにしているのだ。単純なヌード系の雑誌というものは、好みのモデルがいなかったり、趣向が違う(=すなわち、彼が好みとするコスチューム、シチュエーション、モデルに当たらない場合)となると、かなりがっかりすることになるのだ。  そして更にもう一つ、重大すぎる理由があった。それは、彼がある程度こういった刺激的な本に慣れてしまったが故の問題なのであるが、ヌードだけでは物足りないっ! 本場もののド迫力な本番シーンを俺にとくと見せつけてくれよっ! と、彼は時折そういう気分になるのだった。より過激な表現を望んでしまうのは、もはや宿命なのだ。ソフトな表現で我慢できていた頃にはもう、戻れないのだ。きっとこれが、大人になるということなのだろう。 (次ぃ!)  高鳴る鼓動。冴え渡る判断力。彼はその手で更にもう一つの答えを得ようとしていた。 (ここぉ! んっ!?)  ビニールがいくつも重なり合い、ふさふさしている棚へと豪腕が伸びる。だが、待て! 棚の前に置いてあった商品が目に入った! 気になる! 本部より緊急入電! 作戦は中止! 捕獲対象から離脱せよ! といったところか。ドーパミンが分泌され、辺りの景色がぼやけているかのように、彼には感じられた。 (な、何ということだ!)  彼が、素人投稿写真館系のERO本を狙ったところ、その手前に『クリーミー』と言う名の雑誌が見えたのだ。それはまさに、お菓子系グラビア雑誌の到来である。  さてここで、ご存じでない方に少しばかり説明をするとしよう。……お菓子系グラビア雑誌とは、主にお菓子の名前を冠したソフトエロ……微エロタイプの表現を中心としたグラビア雑誌なのだ。クリーミーだのホイップワッフルだの、お菓子類の名前をしているのが特徴で、そこには例えばセーラー服とかブルマとかそういった、かつてはブルセラと呼ばれていたようなコスチュームに身をまとった美少女達の写真が満載されているものなのだ。今で言えば、着エロなんかも通じるところがあるかもしれない。  ……さて。一言にセーラー服と言ってもその形態とは実に様々なものであるが、彼は、定番の一つとされている、上が白でスカートが紺色、そして赤いスカーフという極めてオーソドックスなタイプが好きだった。大好きだった。そしてそんな魅惑的な制服に身を包んだ美少女が表紙になり、自分に向かって微笑んでくれているのだ。これを逃す手はないのだ。彼は共学の学校に通っていたが、こんなにも可愛らしい制服もモデルすらも存在していないという、寂しい青春をおくっていたのだ。  このように、土壇場になって彼の判断に重大な迷いが生じていた。落ち着け。落ち着くのだ俺よ。呼吸を整えろ。そして思考を再開させろ。自分はこの時を長い間待ったのだ。こんなちょっとした状況変化ごときで動じるようなヤワな精神ではないはずだ。落ちつくのだ!  OKOK、まあまて。シンプルにいこうじゃないか。シンプルに。答えは簡単だ。投稿系の雑誌というものは、クオリティのばらつきが非常に大きい。選ぶとなればギャンブル的なリスクを伴う側面が強いのだ。それに対してお菓子系のグラビア雑誌というものは、モデルの可愛らしさを非常に重要視していることもあり、がっかりすることがそんなにないのだ。安定していると言っても過言では無い。 (ならば、よし!)  彼はこの短時間で計画を練り直した。そして正式に選定を終え、購入するためにレジ前へと向かう。魔の11分とは、航空機が離着陸する辺りの時間のことをいうらしい。それはとてもトラブルの起きやすい危険な瞬間だが、ERO本を購入する際の会計タイムもまた、予想外のハプニングが起きやすいと彼は心底思っていた。だからこそか、決済の前にもう一つ行っておくべきことがあるのだ。 (……これだっ!)  彼は、それまでの成人誌とは打って変わり、完全に無関係なレジャー系雑誌を手に取り、さりげなく束の一番上に被せたのだった。この処置によってERO本による猥雑な表紙を完全にカバーすることが可能になり、店員もしくは他の客に気取られることなく、スムーズに店内の移動を行うことができるのだ。  俺はレジャーに興味があったから、そういう雑誌を買った。そのついで。あくまでついでにちょっとこう、戯れにエッチな本でも買っていこうかなーなんて思っただけなんだよ。この感覚、わかるよな? 誤解しないで欲しいなと、そのようなプレゼンテーションを第三者に対して行う事が、これで可能になるのだ。  よし。これで全ての準備が整った。後は速やかに会計を行い、店を辞するべきなのだ。彼はその準備に取りかかることにする。 (何ッ!?)  しかし、作戦最終段階に至り、またも最大の誤算が生じてしまった! それは何か? レジの方を見よ! そこにはいつもいるはずの男店主。……すだれ頭が眩しいおっさん店主ではなく、その娘なのかあるいは単なるバイトなのか詳しいことは彼にもわからないが、とにかく! レジにいたのは普段のむさ苦しいおっさんではなかった! 美人なお姉さんがいつの間にか店番をしているではないか! いかん! これはまずい! だがしかし、今更引くこともできない! こうなればもはや行くしかないのだ! レジ番をしているのがきれいなお姉さんだったが故に、厳選に厳選を重ねた成人誌を諦めろというのかっ!? すごすごと、元あった場所に戻していけというのかっ!? ここまできてっ!? この待ちわびた日を無駄に費やしていいと思っているのか!? 否! 否に決まってんだろ馬鹿野郎! そんなこと断じてできるわけがなかろう! 恥ずかしすぎるし屈辱的でもある! もはや突撃するしかないのだ! この場を切り抜けるのだ! 「……」  少年は平静を装いながら、レジ台の上に本の束を置いた。焦るな慌てるな動揺するな落ち着け。俺はただ、本屋で売っているものを買おうとしているだけなんだ。何も問題などないはずなのだ。ただ、レジャー雑誌のついでに成人誌を何冊か購入し、自分の部屋でささやかな、安息の一時を過ごしたいだけなのだ。  ……それにしても、このお姉さんすげぇ美人だな。スレンダーで見た目的にはおっぱいのサイズは程々のようではあるが、業務用のエプロン姿がなかなか似合っていて可愛いらしい。癖のないロングの黒髪もさらさらしていそうで、くんくんくんかくんかしたらきっといい匂いがしそうだ。今まさに彼が買おうとしている成人誌の表紙を飾っていてもまるでおかしくないような、そんな気がする。でも、もしそうだとしたら、このお姉さんがブルマ姿だったりセーラー服姿だったり、あるいはミニスカをはいていてそこに熱くたぎるスペルマをぶっかけられるということになってしまうではないかッ! おおおおいおいおいっ! それはまずい! だめだ俺! その危険な思考を今すぐに停止せよ! 余計なことを考えた為に、ちょっとばかり股間の辺りが少々もこもこっとしはじめかけてしまったではないか! と、そんな少年の密かな葛藤をよそに、ぴっぴっぴっと、女性がちょっと黄ばんでいて年季の入ったレジスターを操作する音がする。バーコードリーダーすらないような、昔ながらの会計方法だ。当然のことながら、クレジットカードや電子マネーといったようなハイカラな決済方法なんざ使えるはずもないアナログさ加減だ。ネットワーク障害なんかには滅法強そうだけどねっ。  まず女性は一番上のレジャー系雑誌を手にとって、情報を入力し始める。そして流れるような手つきで、その他の成人誌を眺め見る。ブルマ女子高生の表紙も、表紙に『スケスケ淫乱ハウスメイド!?』とかいうわくわくなキャッチコピーのアダルトビデオ・風俗系情報雑誌も、セーラー服の美少女モデル『相河みさお』さんがにっこりと微笑んでいるお菓子系グラビア雑誌も、女性は極めて事務的な表情で一瞥しては会計処理をしていく。  ここで一つお断りしておくが、この時代、年齢制限とかいったような規制に対してはだいぶ緩く寛容というかいい加減であり、たとえ制服を着た高校生であっても『売れません』と、つれないことを言われるようなことはそんなにはないのであった。まさに、古きよき時代だったといえよう。規則規則とやたら口うるさい現在では考えられない話である。 (いよいよだ。禁断の魔書が我が手に納まるのだ)  少年はやはり無言のまま、ディスプレイに提示された金額に満ちた紙幣をキャッシュトレイに置いた。滑らないように、ゴムがついているそれにそっと、千円札を何枚か。女性店員は一切表情を変えることなく金銭を受け取り、釣り銭と共に千切ったレシートを少年に渡すのだった。こうして四冊の本はまとめられて紙袋に入れられ、セロテープ止めされた。  よし。これにて作戦は完了した。あとは一刻も早くこの場を離脱するのだ! 脱出だ! と、彼が紙袋を片手にレジを離れかけたその時だった。静かに破局の時が訪れたのだ。 (っ!)  ちらっと見えただけだった。が、もしかすると、少年の気のせいだったかもしれない。そう言って慰めたところで、彼の傷が癒されることはないであろう。  レジの女性が僅かに、くすっと笑ったような、そんな気がしたのだ。気のせいではない! きっとそうだ! そうに違いない! そうだったんだよ畜生! あああああああああああっ! 笑われた! エロ本買って美人の店員さんに笑われてしまった! 最ッ高に恥ずかしいッ!  彼女の笑みの真意は果たして何だったのであろうか? 嘲りか? 例えば『あぁん? 何エロ本なんか買ってんだよ! んで、家に帰ってしこしこしゅこしゅこしようってのか!? あァ!? ティッシュをちゃんと用意しておくんだぜガキんちょ!』とかそんな粗野でヤンキー口調な……いいや、違う! あれはそんな感じじゃない! そんなグレギャルによる蔑んだ眼差しではなかった! あれは……そう。慈愛に満ちたお姉さんによる『ふふふ。やりたいお年頃なのね。可愛いわ。帰ってから、お○にーを覚え立てのお猿さんのようにいっぱいぬきぬきするのね?』とでもいうような、母性的な笑みであろう。いずれにしても、ものすごく恥ずかしくて悶絶ものだ! ミッションは九割九分うまくいっていた! それが、これだ! このザマだ! この体たらくだ! 畜生ッ! 恥ずかしすぎて穴があったら入りたくなっちまったじゃないか! (うっあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!)  彼は静かに、だが確実に感情を爆発させる。  しかし、ここでまた一つ肝心な事を彼は忘れてはいなかった! 帰り道は特に気をつけなければならない、ということだ! 考えてみよ! もし仮に今、彼が突然横から出てきた車に跳ねられて死んだとあらば、所持品が何であったか世間に広く公開されてしまう可能性が極めて大なのだ。すなわち『知ってるか? あいつはエロ本を買った帰りに死んだんだぜ!』と、末代までの恥さらしになること間違いなしだからである! だからだ! だからこそ、飛び出し厳禁! 左右確認! 交通安全! そんなふうに安全を重視しつつ、彼は自宅まで約十五分程度の道なりを大いなる失意と、大きな期待と共に駆け抜けていくのであった!
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